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一瞬を刻む

今年は文字通り師走の忙しさ。
書きたい事が沢山あるのに、書くために集中する時間が取れないし、上手く纏まらないので書きかけで保留にしているのが数本ある。

このところ考えていることは、“信頼“と“ひとに委ねる“ということ。
春先からFace to Faceでのコミュニケーションが制限されて、仕事の関係者の人たちも画面越しの“はじめまして“のご挨拶が増えた。
それで不便だったかと言えばそうでもなく、仕事はそれなりに回ってゆく。

でも、相手に仕事を委ねて良いのか?という温度感というものが見えづらくなったとは思う。
きっとそれは、相手からしても同じだろうからと、いつもより3割増しくらいに丁寧にボールを投げ返そうとする。
必然、時間をとられる。
あれも返さなくては、これもレビューして戻さなくては、と自分の中でのタスクが積み上がって、勝手に追い立てられているような気持ちになる。

真摯に仕事をしていたら、いつの間にか自分を信頼してくれる人が増えたと思っていたけれど、その期待に応えなければと自分が追い込まれている事に、ハタと気づいてちょっと溜息。

“良い人になろうとしてるんじゃない?“

娘を迎えに出る夕暮れ、近所に住み着いていて時々生垣から顔を出す茶トラの猫と、ふと目が合った。
彼(多分、雄だ)は大欠伸をしたあと、こちらを見透かすような眼で見て、じっと動かない。

茶トラの彼と数秒相対したとき、何だかスッと真理を突かれたような気がした。
ひとがどう思うかではなく、自分がどうしたいのか、ではないのか?
簡単なことなのに、忘れていたと気づく。


昔からひとと何かを共有する時、いつも100%の信頼を相手に置くことが出来なくて、何だか後ろめたいような、申し訳ないような気がしていた。
もちろん相手を信じていない訳ではないのだけれど、どこかで保険を掛けている。
それは、いつかのように傷つくことを、恐れているから。

それでも信じたがってしまう自分を、少し持て余し気味で、今のこの一瞬を、永遠に閉じ込めてしまいたくて。
“サヨナライツカ“の詩のように、永遠なんて存在しないのだと、いつかそれは氷の欠片のように溶けて無くなるものなのだと分かってはいても、サヨナラを用意しておきたい自分と、そうでない自分がせめぎ合っている。

たぶん私は、私自身を信じられないのだ。
誰かの手の温かさが自分から離れてゆくことではなく、いつか自分の気持ちがうつろうことを、私は恐れている。
永遠に閉じ込めておきたいのは、私自身の今の想いなのだと思う。

結局のところ私は欲張りで、一瞬も永遠も両方とも手に入れたいのだ。
だから今日も一瞬を刻む。
永遠は手に入らないかもしれないと分かっていても、手が届きそうな、少し先の未来のために。

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