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名作にくらいつけ! 安部公房「砂の女」(3) ~比喩、不可知なものに輪郭を(五)~


(1500字程度)

 これらの事柄は、むしろ比喩だからこそ伝わるのであり、そのものをそのまま語ろうとした途端に、我々は困難を感じてしまうのではないだろうか。
 中身が存在せず、その実態に輪郭を与えることでしか理解できないもの。そういったものに囲まれながら我々は生活していて、時折そういったものに突き当たっては、それらの理解に、伝達に、窮々としているのではないだろうか。

 例えば、プラトンの徳や善を語るとき、イデアという概念が頻繁に出てくる。
 善のイデアとは、平たく言えば、善そのものということが出来る。一切混じりっけのない、純粋な善そのものなので、イデア自体を認識することは人間には出来ない。しかしイデアの影、具体的なものを通して、人はイデアに近づくことが出来る。
 そのイデアの影を説明するときに語られるのが、洞窟の壁に映る影についてである。
 洞窟には人々が住み、手足を縛られている。洞窟の入り口上方には光があり、光と洞窟の間に何かがあると、洞窟の壁に影が映る。仮に光と洞窟の間にあるものが善のイデアだとすると、振り向くことのできない人々は、洞窟の壁に映った善のイデアの影を通して善のイデアを感じ取る以外にない。
 実体を認識することはできないが、影を通して少しでも近づこうという、そういう話だ。

 この、イデアについて説明している洞窟の話そのものが、比喩だ。イデアというのは、比喩を通してしか認識できない概念なのだ。
 我々に必要なのは、とりあえずここまでだ。ここで話は、二十世紀のユング心理学まで飛ぶ。

 元型というものを聞いたことがあるだろうか。原型ではなく元型の方である。
 ユング曰く、人間の無意識の領域には元型が存在する。存在はするが、それを認識するためには、象徴というものが必要だ。
 象徴の代表的な例としては、グレートマザー、トリックスター、老賢人などがある。それらがどういうものなのかということは省略させて頂くが、肝心なことは、ここでもまた、比喩を通してしか認識できないものが存在するということだ。
 実際、元型は、ユング心理学の重要な概念だ。ユング心理学を専門とした治療者は、おそらく皆、この元型の概念を理解した上で、現場の仕事にあたっている。
 元型の概念は、案外身近に取り入れられており、我々の社会に溶け込んでいる。日本におけるその第一人者は、あの河合隼雄だ。
 けれども、あの河合隼雄でさえ、元型そのものを認識することはなかった。元型は、象徴を通してしか認識できない。

 つまり、比喩を通してしか認識できないものは存在するのだ。我々にとって重要なのは、そこだ。

 そう考えると、安部公房がなぜこれだけ比喩にこだわったのかわかる気がする。
 安部公房が、イデアや元型の概念にどれだけの興味を払っていたのか、それは私にはわからない。しかし、無意識に多大な関心を持ち、夢の内容をレコーダーに記録していたほどの人だ。
 比喩の威力を、十分に理解していたことには違いないだろう。そのものを語ることの代わりに、数え切れないほどの比喩を通して、それらに輪郭を与え続けてきたのだから。

 紹介したい比喩なら、いくらでもある。最後にもう一つだけ、美しい比喩を紹介させて欲しい。これが単なる私の趣味であることも、許してほしい。

とつぜん、映写機が故障したように、二人はじっと動かなくなった。どちらかが、何かしなければ、そのままいつまでも続きそうな、固くこわばった時間だった。

同上、147ページ

 男女が見つめ合う時、時はまさしく止まるのだ。


(おわり)


*まさかここまで長くなるとは思っていませんでした。この記事を書いたことは、私にとって、大きな経験になりました。読者の方々には本当に感謝しています。最後まで読んで頂き、ありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう!!


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