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エッセイ 裏腹な笑いは野球部に降り 3

(2000字程度)


 その瞬間、プッという、その場にそぐわぬ間抜けた音が聞こえてきました。言い出しっぺの坊主頭の口から漏れ出たものでした。半身を伸び縮みさせていた坊主頭だったのですが、ロッキーのテーマが有名な場面に差し掛かった途端、体を起こすのも止めて、急に吹き出してしまったのでした。 
 
 その場にいた何人かが何事かと驚いていると、そのまま坊主頭は床に手をつき、おもむろに笑い始めたのです。高らかな笑い声とは程遠い、クククという、むしろ抑えきれないものが滲み出てくる具合の笑い方でした。
 その場の一同は、さらに驚き、当惑の表情を浮かべていました。
「どうした。大丈夫か」
 こんな言葉が、帰ってきました。
「やばい。笑えるくらい上がる」

「マジでやってみ。やったらわかる」

 不思議なことに、嘘をついているようにも見えませんでした。顔を見合わせるばかりの部員たちの顔にも、少しずつ笑顔が戻ってきました。その笑顔には、どこか期待の色さえ浮かんでいました。
 怖々ながらもすでに腹を決めたのか、そばで腹筋を手伝っていた大柄の坊主頭が、えいとばかりにそばに座って腹筋の体勢を取りました。テープは巻き戻され、ロッキーのテーマの冒頭に合わせられました。

 鳴り響くファンファーレ。短く刻まれた破裂音が、二つになり、三つになり、和音を作って問い質した瞬間、重低音が、同じ具合に問い質す。そしてあのフレーズへ。

 プッ。同じように噴き出す音が。そして同じく、こみ上げてくる笑い声。そして、
「うそだろ。笑えるぐらい、腹筋が上がる」

 そうは言われても、なぜ腹筋が上がるのか。よし例え上がるにしても、思わず笑ってしまうくらいに、本当にそんなに力が出るのか。
 薄気味悪い現象を前に、当然ながら次々と坊主頭が集まり、周囲を取り囲み始めました。すでにザワザワし始めており、ただならぬ雰囲気が漂い始めている。当人たちが、苦しんでいるのではなく、笑いこけているということだけが、安心の材料でした。

 新たな坊主頭が腹筋の体勢をとる。テープが巻き戻され、ファンファーレが鳴り響く。
 プスっ。四つん這いになり、床を向いたままクククとやり始める。
 新たな坊主頭。ファンファーレ。プッ。ククク。

 部室前のスペースが、感嘆と笑いで満たされていき、次こそ我もと急ぐ坊主頭の横に坊主頭が並び、その坊主頭の横にさらに新たな坊主頭が腰を下ろす。もちろん、私も、その坊主頭のうちの一人でした。

 仰向けに寝転がって両膝を立てる。両の掌は後頭部に。薄暗い中で蛍光灯が控えめにこちらを照らしている。何度目かのファンファーレが耳に届く。本当に変化が出るのか確かめる為に、有名なフレーズに入る少し手前で、反復運動を始める。筋肉のつきにくい腹部を使って上半身を持ち上げるのは、いつだって楽なものではない。しかし、どこか変化を感じる。テーマが始まる前の導入の部分、金管楽器が少しづつ束をなして膨らんでいくその時点で、もうすでに私は変化を感じている。高まっていく高揚感の中で、わが身の変化に対する不安と期待とが、ない交ぜになっていく。響き渡る高音が私を試す。お前はやるのかと。その後に続く低音が、荘厳な問いを投げかける。やるに決まってるさ、黙ってみてろ。体を丸める具合にして、上半身を起こす。腹のあたりにピッとしたものを感じる。高まっていく気分の中に、辿り着くことのない衝動を感じる。意味なんかなくたっていい。ただこの衝動に身を任せ、我を失ってしまうほどにこの腹筋運動一つに集中し、むしろこのフローの状態のまま、この場に倒れ込んでしまいたい。私は、全身を、力ませる。

 パパーンパーン。プッ。

 他の坊主頭同様、私は吹き出してしまいました。体を折ってクククとやり始めました。そして、少し笑ってから、笑顔のまま、ひたすら腹筋運動にのめり込みました。

 なんだこれ、こんなことがあってたまるか。音楽一つでこんなにやる気が湧いてくるなんて、こんなの出来の悪いマンガじゃないか。俺みたいなひねくれものが、そんな冗談みたいな状態になっちゃうなんて、こんな可笑しいことが他にあるかよ!

 今になって思えば、普段出ることのない、脳内物質でも出ていたのでしょうか。まさかロッキーのテーマで、本当にロッキーのようなエネルギーの塊になってしまうなど、誰が想像したでしょうか。その後のことと言えば、自然、この言葉で溢れ返ることとなりました。

 「エイドリアーン!」

 やたらと響く部室の前のスペースで、スタローンのどら声を真似した坊主頭たちが、何度となく、そう叫んでいました。九十年代も半ばを超えた頃でした。

 エイドリアンさんとは、どちらの国のお名前でしょうか。やはり、アメリカでしょうか。もしもエイドリアンさんに会ったら、教えてあげてください。九十年代の半ば頃、おそらくは地球の裏側で、たくさんの坊主頭たちが何十回とあなたの名を呼ぶ一日があったと。



(おわり)

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