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「#09」ポル・ポト時代に翻弄されながらも、逞しく生きた母

みなさま、こんにちは。カンボジアシアヌークビル在住のそくあんです。
前回のあらすじはこちら。


ポル・ポト時代に翻弄されながらも勇敢に逞しく強く生きた母の物語です。そして世界一優しい女性として在り続けた母は長い闘病生活の末、62歳で帰らぬ人となりました
前章は父親に触れて書いてますのでよければそちらと合わせて読んでくださいね。

「カンボジアの戦乱から平和へ」



母親の生い立ち


母親は1957年2月8日にカンボジアのタケオ州で生まれました
1992年から1993年の間に日本の自衛隊がカンボジア国連平和維持活動を行った拠点の一つです。


国連カンボジア暫定機構(UNTAC)は、世界の各地域から派遣された要員で行われた大規模な国連平和維持活動の一つです。我が国は、停戦監視、文民警察、選挙、及び道路・橋の修理などの後方支援の各分野の協力を行いました。

内閣府HP


母親の生家は木材建築のクメール高床式です

パリ和平協定の果てに


カンボジア内戦は、1970年代から続いていた紛争であり、共産主義勢力のカンボジア共産党(クメール・ルージュ)が政府軍との戦闘を繰り広げた。内戦は大きな犠牲者を出し、カンボジアに深刻な人道危機をもたらしました。

1989年、カンボジア内戦の終結に向けて、国際的な協議が行われました。
これによって1991年、パリ和平協定が締結されました。
パリ和平協定は、国際連合(UN)など複数の関与国が仲介し、カンボジアの和平回復と民主化のプロセスを促進することを目指していました。

この協定によって、内戦を終結させるための基礎が築かれ具体的には、停戦合意、国連平和維持活動(UNTAC)の派遣、カンボジアの選挙制度の確立などが盛り込まれました。

これらのニュースを聞いて私たち難民は喜びに満ちていた記憶があります。
「ようやく平和が訪れた」

母親はカンボジアへの想いを募らせます。

平和を願いながらカンボジアへの帰郷


私たちは、1992年の12月末にカンボジアへ帰郷するために家族と再会することを決めました。旅行会社に電話をして手配をしてもらいます。しかし、直行便がなかったため、シンガポール経由でチャンギ国際空港で数時間待つことになりました。その時、私たちは祖国の平和を願いながら、難民定住センターに入所していた何家族と共に大移動をしました。

この当時、日本の経済はバブル崩壊と報道されていましたが、私の両親の収入はまだまずまずで、生活するのに十分な金額でした。
両親は働いて得たお金を貯金し、家族全員の航空券を手配することができました。

再入国許可書とはなんですか。


私たちは難民で国外に逃げたために国籍を持たなくなりますので無国籍者となりました。そのため、旅券を所持しているわけではないため、日本など他の国へ渡航するためには、旅券の代わりとなる証明書を発行してもらい、渡航申請を行う必要がありました。

タイ領内から国外に出る時にいくつか旅券に変わる冊子を発行してもらいましたが別の記事に詳しく書きます。


-有料記事-


そして日本に定住が認められたカンボジア難民のが所持していた許可書はこちらです。

「この許可書は、出入国管理及び難民認定法第二十六条第二項に基づき、所持人の再入国許可の為に交付するものであり、所持人の国籍を証明するものではなく、また、その国籍に何ら影響を及ぼすものではない」
と見開きページにかかれてます。

再入国許可書のページをいくつか載せてます。
すこし個人的な情報開示になりますので、有料記事にしてあります。
ごめんなさいね。

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カンボジア、時に日本。 知らない世界を学ぶのが好き。カンボジア南部海辺街のシアヌークビルで暮らしてます。旅行本にはけして載らない情報を発信できるようにします。 珈琲一杯分で結構ですので、皆様の暖かいサポートをお待ちしております。