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呼吸の瞑想(7): 無常と無我

 おはようございます。前回は「心」について見ました。その中で心に生起する煩悩を見つめ、その煩悩との距離の取り方について学びました。しかしそれは煩悩からの完全な解放ではありませんでした。

 第4の考察は「智慧」です。智慧とは何かというと、心の苦しみはどこから来るのか、そしてその苦しみからどうしたら解放されるのかについての理解と実践です。

第四の四考察(智慧に関する考察)
13. 「無常であることに意識を集中させながら息を吸おう。無常であることに意識を集中させながら息を吐こう」と訓練しなさい。
14. 「色あせていくことに意識を集中させながら息を吸おう。色あせていくことに意識を集中させながら息を吐こう」と訓練しなさい。
15. 「解きほぐれていくことに意識を集中させながら息を吸おう。解きほぐれていくことに意識を集中させながら息を吐こう」と訓練しなさい。
16. 「手放すことに意識を集中させながら息を吸おう。手放すことに意識を集中させながら息を吐こう」と訓練しなさい。

 13番目の考察に「無常であることに意識を集中させながら息を吸おう」とあります。無常というのは、お釈迦様の教えの中心でもあります。無常というのは、いつまでも変わらないものなんてないのだよ、ということです。平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」というように、日本人は昔から無常ということを感覚として持っていたようです。街の景色を見ていてもそうですね。昨日まであった建物がある日突然消えていて、そうかと思っているうちに新しい建物が建ってそれに慣れていきます。大切にしていた物も何かの拍子で壊してしまったりすることもありますね。私たちは世の中は無常だということを体感として知っています。

 お釈迦様の教えの一番大切なことは、世界は無常なのだから、そういう世界にある物や人に執着してはいけないということです。無常なものに変わらないでほしいと執着するから苦しみが生まれるのです。いかなる物に対しても「これは永遠に私のものだ」などと考えてはいけません。誰だって自分のものが失われるのを見るのは悲しいでしょう。むしろすべての物は変化していくのだという気持ちで、物事の変化していく様子を受け容れることが大切です。

 さて世の中は無常ですが、実は自分の心も無常です。つまり今、自分たちの心にあるものは、たまたま私たちの心に浮かんだというだけで、未来永劫続くものではないのです。何かにカチンと来たときには怒りの感情が湧き上がってきますが、この怒りはたまたま今自分の心にあるというだけで、これから一生怒り続けるわけではありません。数分もすれば怒りのピークは過ぎ去るでしょうし、次の日になれば怒ったことさえ忘れてしまうかもしれません。どんなに激しい怒りでも、それはやはり無常なのです。喜びや悲しみも基本的には同じです。欲望はもう少しやっかいかもしれませんが、これについては次回お話しします。いずれにしても私たちの心は常に形を変えていく雲みたいなもので、決まった形をしているわけではないのです

 そして自分の心が無常だとすると、結局、確固とした「私」などというものもないことになります。これを仏教では「無我」といいます。永遠に変わらない「私」の本質などというものはないということです。

 もし次に怒る機会があったらぜひ試して頂きたいことがあります。怒りを感じたら、まずその怒りに気づいてください。「あ、これは怒りの感情だ」と言語化しましょう。感情を言語化することで私たちはそこから一歩離れることができます。そして自分の心で何が起こっているのか観察してください。身体の感覚にも心を向けてください。その感情は身体のどのような感覚と関係しているのでしょうか。怒りがどのように生起したのか、心を解きほぐすようにして見ていきます。次にその怒りは無常であると思って下さい。今は強い怒りを感じていてもそれは永遠に続くものではないと観じて下さい。実際に怒りの感情が時間とともに和らぐことを感じ取ります。それから自分の呼吸に意識を向けて、静かに呼吸をしてみてください。怒りを抑えようとする必要はありません。ただ見つめて言語化することだけで十分です。怒りはあなたの「中核」ではないのです。やがて怒りは自ずから消えていくでしょう。怒りの無常を発見して下さい。悲しみや喜びについても同じことができます。やがて、すべての心は私の元にやってきては去っていくという「無我」の境地を発見することができるでしょう。

 本日は最後までお聞き下さり、ありがとうございました。

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