見出し画像

呼吸の瞑想(8): 執着心を手放す

 おはようございます。いよいよ今日で「呼吸の瞑想」のお話も最後です。前回から4つ目の考察である「智慧」についてお話ししています。前回はその中の第13の考察「無常であることに意識を集中させながら呼吸をしよう」についてお話しました。今日お話しする第14, 15, 16の考察は「色あせていくこと」、「解きほぐれていくこと」、「手放すこと」に意識を集中させながら呼吸をしよう、というものです。

第四の四考察(智慧に関する考察)
13. 「無常であることに意識を集中させながら息を吸おう。無常であることに意識を集中させながら息を吐こう」と訓練しなさい。
14. 「色あせていくことに意識を集中させながら息を吸おう。色あせていくことに意識を集中させながら息を吐こう」と訓練しなさい。
15. 「解きほぐれていくことに意識を集中させながら息を吸おう。解きほぐれていくことに意識を集中させながら息を吐こう」と訓練しなさい。
16. 「手放すことに意識を集中させながら息を吸おう。手放すことに意識を集中させながら息を吐こう」と訓練しなさい。

 ここで色あせたり解きほぐれていくものは、自分がその対象に対して持っている執着心です。執着心とは、欲望がずっと満たされずにいたり、あるいは一度手に入れたものを失ったりしたときに、その欲望が肥大化して常にそのことに心が奪われてしまっている状態のことです。私たちは何かを強く欲しいと思ったり、誰かに対して強い愛や怒りや憎しみを持ったり、何か悲しい出来事が起こって心を痛めたりしているときに、その思いからは一生逃れられないような感覚に陥ります。それが長じると、苦しくて夜も眠れないとか、食事ものどを通らないという状態になります。こうなると、自分自身が執着心と一体化してしまっているといえます。

 ここで思い出して欲しいのは、前回お話ししたように、世の中のすべて物事は無常だということです。どんなに大切にしていても、壊したり失くしたりしてしまうこともあるでしょう。それにいつまでも囚われていても仕方がありません。そして、私たちの心もやはり無常だということを学びました。一時的に強い思いに囚われたとしても、それは一生続くわけではないのです。前回お話しした怒りなどの感情は、そのときの経験としての強さは大きいですが、時間が経てばいずれ消えていきます。悲しみも時間とともにある程度は癒されるでしょう。しかし執着心は違います。これは何日もしぶとく心に居座り続け、仮に一度克服できたとしても、ふとしたきっかけでまた戻ってきたりする厄介なものです。ですから第14から16の考察はこの執着心を克服するための訓練になっています。

 第14の考察は、そうした自分の執着心が色あせていくイメージを持ちながら呼吸による瞑想を行います。ここでは執着心を無理やり押さえつけたり手放そうとするのではありません。それでは執着心がさらに強くなってしまうかもしれません。まず自分の執着心を捉えることが大切です。ここまでの瞑想の訓練をしていれば、自分の本当の執着心がどこにあるのか突き止めることができるでしょう。そしてそれを見つめ、静めること、それが自ずと力を失い、色あせていくイメージを持つことが大切です。自分の怒りの感情を見つめ静める訓練は前回行いました。それと同じ要領で執着心を見つめ、静める訓練をします。

 続く第15の考察は「絡んでいたものがほどけていく」イメージです。執着心は複雑に自分自身と絡み合っています。これが自分の心から自然とほどけていくイメージを持ちましょう。このときも無理やり剥がす必要はありません。あなたの執着心はすでに色あせて力が弱まっているので、自然と少しずつほぐれて自分から分離していきます。あなたはただそれを見つめていれば良いのです。

 そうすれば最後の第16の考察である「手放すこと」は自然な延長で行えます。すでに執着心がほぐれて自分から分離し始めていますから、それは「手放す」というよりは、自分から離れていくのをそっと見守るイメージになります。それはあなたの本質ではなかったのです。離れていくのをそっと見守りましょう。そして「無我」の境地が訪れます

 もしかしたら自分の欲望を手放すことに抵抗を感じる人もいるかもしれません。自分の好きなものを追いかけることの何がいけないのか、大切な人を愛することのどこがいけないのかと。実は、ここで言っているのはそういうことではありません。何かに対する欲望や誰かに対する愛情は持っても良いのです。重要なのは、愛と執着心は違うということです。見分け方は意外と簡単です。執着心を持つと自分や周りの人が苦しみます。もし何かを好きになりすぎて自分の心が苦しみだしたら、もしくは周りの人が辛そうにしていたら、それは求めすぎなのです。心の中に執着心が芽生えてしまっています。そういうときには今お話しした瞑想を通して、自分の心を少し制御しなければなりません。執着しない愛を目指しましょう。いつでも手放せる状態のまま、その対象へ心からの愛を注ぐのです。これは仏教における究極の心のあり方ではないかと思います。あらゆる物ごとに、またすべての人たちに対して、執着しない愛を持てたらそれは素晴らしいことだと思います。

 「呼吸の瞑想」に関するお話はこれで終わりです。最後の境地まで到達できたでしょうか。一度最後の考察までうまくできたとしても、また自分の感情や煩悩に悩まされることもあるでしょう。そのときは繰り返し、適切な箇所からこの瞑想を実践していただけたらと思います。

 本日は最後までお聞きくださり、どうもありがとうございました。

「呼吸の瞑想(7): 無常と無我」

「呼吸の瞑想」目次ページ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?