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なぜ「好きなもの」と「得意なもの」がズレるのか

シンギュラリティとかフィンテックとかダイバーシティとかキャラメルマキアートとかが喧伝される最先端のこの時代にあっても、一見古めかしいとさえ思われる「言霊の呪い」が日々生まれ続けている。もちろんそれは、どこぞの文明がもたらされていない未開地域の悪しき風習だとかそういう話じゃなくて、この日本という近代国家においてである。

とりわけ呪いが生まれやすいのは、自己啓発というジャンルである。自己啓発にハマるのは、内面が揺らいでいるからで、そういうときこそ、外部からの呪いの言葉を真に受けやすい。そして、ここ最近の自己啓発ジャンルの代表的な呪文として「好きなものと得意なものを探しなさい」というものがある。

いわく、現代社会では、平均的な人間になるよりも、誰にも負けない強みをもっている者の方が求められている、そしてその強みは好きなものを追及することで得られるものだ、という主張である。

好きで、得意で、稼げるものを探す大人の旅

そして大人になると、この「好き」、「得意」という2要素にさらに「稼げる」というリアルな要素が加わり、呪いのトライアングルが形成されて、心が蝕まれていく。

もちろん、この3つの要素を全て併せ持つ場所に自身をポジショニングさせている人は大変に少ない。この3つが重なる幻の桃源郷を探すも見つからず、永遠に放浪の民を続けて干からびるか、現実は現実だと割り切ってどこか居心地の悪い場所に永住し、不満を抱きつつも我慢して果てるケースが大半であろう。

この3つのベン図に、さらに「世が求めていること」という茫漠としたもうひとつの円を加えて、全てが重なるところが「ikigai(生きがい)」であるという図も一時期流行した。

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ここまでくると、もはやがんじがらめ過ぎて、いい感じに地雷が解除できてきた終盤のマインスイーパなみにどこに身を置けばよいかわからない。これほど人を縛るものを、呪いと呼ばずして何と呼ぶべきだろうか。

そもそも「好き」=「得意」であるはず

そもそも、こんな複雑な図を描かずとも話は単純だったはずなのだ。普通に考えれば「好きこそ物の上手なれ」という言葉があるとおり、好きと得意は一致するはずである。

何かを好きになるという事は何かに熱中することで、熱中するとは多くの時間を費やすということだ。何かに多くの時間を費やす事ができれば、その何かはよほど才能が欠如していない限り、自然に上達するはずだ。

好きなものが得意になり、得意なものを褒められ、また好きになるという好循環が形成されれば、この2つは一致する方向に強化・発展していくはずである。

だが、奇妙なことに世の中には好きと嫌いが乖離してしまう人が一定数いる。「○○が好きだけど、でも得意じゃない」、「××は得意だけど、でも好きじゃない」という悩む人がとても多い。

「得意」なものが「嫌い」になる理由

では、なぜこのような両者が乖離する現象が起きてしまうのか。これはおそらく簡単で、その人が自分自身のことを好きでは無いからだろう。

自分自身を認められないがゆえに、すでに自分が持ち合わせている得意なものを過小評価し、そんなものは持っていて当たり前だと認識してしまう。だから好きになれない。そして逆に、自分に欠けているものに憧れ、それを手に入れようと必死に頑張ってしまう。

しかし、自分に欠けたものとは、そもそも自分にとって自然に備わっていないもので、それを好きなものだと誤解して、後天的に獲得しようとするのはなかなか難しいものである。それはいわば、心を持たないロボットが、愛に憧れ、それを探して苦悶する不毛さや切なさに似ている。

というわけで、自分の好きや嫌いを探そうとする時や得意不得意を探そうとする時、まずは自分自身をどう認知しているか、というところを大いに考慮する必要があるだろう。

と、このように考えると、好きや得意の呪いから解放されることができるが、「まずは好きや得意を探す前にまずは自分を認める必要があるな」などという結論に至ると、「自己肯定感」という新たな呪いをかけられてしまうわけで、とかく現代というものは、つくづく呪術的な社会だと思う。(了)

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