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冷蔵庫でダイバーシティを学んだ日のこと

人間いつどこで学びを得るものかよくわからないもので、私がダイバーシティ、いわゆる多様性を尊重する難しさを学んだのは、冷蔵庫を通じてであった。

その昔、イギリスで学生をしていた頃の話だ。私が住んでいた学生寮では、5つの部屋につき、大きなキッチンがひとつついていた。

私があてがわれたキッチンにも、他に4人の使用者がいた。中国人男子の李くん、韓国人女子のホンさん、インド人女子ヒーナ、そして同じくインド人男子のサイ(いずれも仮名)である。

私を含む全員が自炊派だった。というよりもイギリスの食事に見切りをつけて、みんな自炊派になったというのがより正確な話である。

イギリスで暮らし始めた外国人誰しもが、イギリスの食事の洗礼を浴びる。「イギリスの飯はまずい」というよく聞く例のアレである。

例のアレが、なんら脚色のない純然たるノンフィクションであることを思い知ることになるのだ。

私が思い知ったのは、入学早々に学校のカフェテリアで頼んだパサパサのパンとペラペラのハムとグチャグチャなトマトで構成されたサンドウィッチを一口かじった時だった。

こりゃダメだと思った私はその週のうちに、学校近くのチャイニーズスーパーに駆けこみ、格安の炊飯器や調理器具を購入した。

そして寮のキッチンでカレーや丼物など、簡単なものを作ることで、自炊で3食を済ませることにした。イギリスの物価は高いが、食料品は比較的リーズナブルである。お金も節約できるしちょうどいい。

キッチンでの攻防戦

そんなこんなで快適な自炊ライフを送っていたわけであるが、ある日部屋にいた私は、インド人の長身理系男子サイにキッチンに来るよう言われた。

キッチンにある大きなダイニングテーブルには、私以外のキッチン使用者4名がすでに座っていた。召集をかけたのはインド人女子のヒーナであった。

以降の内容と何ら関係はないが、ヒーナはマハラジャの娘である。「この前、地元に帰って従兄弟の結婚式に行ってきたの~」と、金ピカの衣装の男女の目の前で、おそらく1000人は軽く超えるであろう来客たちがダンスをしている写真を見せてくれたときは仰天した。

そんなお嬢様ヒーナは、私が着座するやいなや、こう言った。

「あの、みんなにお願いなんだけど、冷蔵庫に肉を入れるの、やめてもらえないかな?」

「え……」と突然の頼み事に虚を突かれたのは、私を含む日中韓の3名である。キッチンには家庭用サイズの冷蔵庫がひとつあって、それも5人で共有する形になっていたわけだが、そこに肉を冷蔵庫に入れてはいけないというわけだ。なぜ? どうして? Why?

 混乱する頭で、私はヒーナに問う。

「鶏肉も、豚肉も、牛肉も、羊肉も、全部?」

「うん、全部…」

全部かよ……と思わず心のなかでツッコんでしまう。

隣では、ホンさんが私と同じかそれ以上に困惑していた。

ホンさんの得意料理は何を隠そうプルコギである。肉のないプルコギを作るなんてマルドアンデ!(注:韓国語でありえないの意。最近「愛の不時着」で覚えた)と思ったのかどうかわからないが、ホンさんが眉間にシワを寄せて質問する。

「どうしてなの? 理由を説明して」

「私、産まれた時からベジタリアンで、肉を一度も食べたことが無くて……」

ヒーナは申し訳無さそうに答えた。ここでサイが補足してくれる。ヒーナが住むインドの地域の人々は、ほとんど肉を食べないらしい。ヒーナは続ける。

冷蔵庫を開けると、肉の臭いがして、毎回気持ち悪くなっちゃうんだよね。これまで耐えてたんだけど、もう耐えられなくて……

生肉に臭い……? と思わず考え込んでしまった。正直に言って、全然理解できなかった。冷蔵庫を開けて、生肉の臭いがするな、と感じたことはない。というか、生きてきたなかで、生肉の臭いを意識したことすらなかった。

焼いた肉の香ばしい臭いはわかるが、それは自分にとってはただの「美味しそうな臭い」である。まったくわからない。

「スーパーのパックに入ってる状態の開けてない肉もダメなの?」

私がそう問うと、ヒーナがうなずく。

「うん。パックに入ってても臭いがするんだよね」

果たして、密閉されている肉のパックから臭いがするものだろうか?私はいよいよわからなくなった。

「冷蔵庫に肉を入れないなんて、そんなの不可能だよ!」

と、いきなり興奮しだしたのは李君だった。四川省出身の李君は、入寮数日にして、しびれるほどに辛いお手製麻婆豆腐を私に振る舞ってくれたナイスガイである。中華鍋を煽り、ひき肉いりの豆板醤を慣れた手つきで炒める彼にとっても、肉が保存できないことは痛手であろう。

で、この李くんの発言を皮切りに、ここから話し合いという名の激論が始まった。「肉を一日で食べきるのは?→そんなの無理」、「冷蔵庫のチルド室の中に肉を入れるのは?→それでも臭う」など、果ては「そもそもそっちだって匂う食材を入れているじゃないか」とか、少し喧嘩にもなりかけた。


30分ほどの激しい議論の結果、我々が出した解決案は、「肉は冷蔵庫ではなく冷凍庫に入れる」というものだった。

こちらとしては少しばかり不満だった。使うたびにいちいち肉を解凍するのは面倒くさいし、急激に解凍すると味も落ちる。それでも、双方が納得できる落とし所として、これくらいの妥協は仕方がないところかなと思った。

「相手の当たり前」がわからない難しさ

この「冷蔵庫に肉入れないで事変」は、とても些細な出来事ではあるものの、私が生まれてはじめて「ダイバーシティを尊重することの難しさ」にぶち当たった瞬間であった。

それまで日本を出たこともなく、国内でもごくごく限られたコミュニティで過ごしてきた自分にとっては、恥ずかしながら「相手の感覚がまったく理解できない」という状況に遭遇したことはなかった。

しかし、この出来事を通じて、本当にダイバーシティを尊重できるかどうかが問われるのは、以下の4点の状況が揃った局面だと学んだ。

・相手にとって当たり前の感覚があり、その感覚を元に何か要求される
・こちらはその相手が持つ感覚に1ミリも共感できない
・どちらかの事情を優先すると、どちらかが我慢を強いられる
・その相手と共存せざるを得ない状況にある

相手にとっての当たり前と自分の当たり前がまったく噛み合わない状態で話をするというのは、かくも難しいものかと痛感したのだった。

「郷に入りては郷に従え」が揺らいでく社会

ひるがえって、2020年現在の日本では、すでに多くの国から多数の外国人労働者を受け入れている。

とてつもない少子化で人口が減少していくこの国では、貴重な働き手として、日本国外からやってくる人材が今後もますます求められ、海外からの居住者は増え続けることだろう。

そんな彼らに対して、これまで我々日本人は、「郷に入れては郷に従え」という論理で、自分たちのルールに従うよう要請してきた。

だが、外国人居住者の人口が増え、その出自が多様になればなるほど、上記4点の状況を満たしてしまう出来事に遭遇する確率が上がっていくはずだ。

そのような状況になった時、我々日本人はどのように対処するだろうか。自分たちの主義主張を叫び、彼らとひたすらに対立するのか、あるいは自分たちの感覚に妥協して共存を図るのか、私には予想ができない。

世界中からの学生が、第三国に集まっていた学生寮とは違って「異文化で育った人々が日本にやってくる」という状況ではあるので、話はいっそう複雑になるだろう。対立や衝突は避けられない気もする。

偉そうにこの文章を書いている私も、また似たような状況に陥ったときに、うまく対処できるか、正直自信がない。しかし、知恵を出し合って良い形に着地させられることができないかどうか、あの日冷蔵庫を巡って戦った議論を思い出してがんばってみようと思う。

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↑その後、すっかり仲良くなったヒーナが私に作りかたを教えてくれたラジマカレー(金時豆のカレー)です。


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