【シリーズ「あいだで考える」】奈倉有里『ことばの白地図を歩く――翻訳と魔法のあいだ』の「はじめに」を公開します
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はじめに ——印刷機からのメッセージ
ああどうしよう。困ったことになったぞ。
おや、きみは新顔だね。はじめまして。ぼくはいまきみが手にしている白地図を印刷した印刷機だ。えっ、印刷機がしゃべるもんかって? まあまあ、しゃべったっていいじゃないか。だってこれから出かける世界には、妖怪もいるし迷信もあるし学者先生もでてくるし、おまけにきみは魔法が使いたいっていうんだろう? じゃあ印刷機だっておしゃべりするさ。
それより、困ったことになったんだよ。ぜひきみの手をかしてほしい。
世界にはたくさんの人がいて、いろんなことばがあるってことは、きみも知っているだろう。人々は飛行機で空を飛んで遠いところの人と出会ったり、インターネットで地球の反対側の人とメールやチャットでやりとりしたり、どこかに集まって一緒に絵を描いたり歌をうたったりして、仲良くなってきた。
ところが最近ぼくが少し気を抜いていたあいだに、おかしなことがたくさん起きているらしい。なにしろぼくは印刷機だから、ことばのことにかけちゃ、自慢じゃないけどけっこう目ざといんだ。誤字脱字や年号の間違いなんて、作者も校正者も気づかなかったところに、ぼくが気づくこともある。気づいたところでしょせん印刷機だから印刷するしかないんだけど、そういうときはわざとふだんより大きな音をたてて「ガガッ」とか「ゴゴッ」とかいってやることにしている。
でもいま困っているのは、ぼくがちょっとガーガーいったところで手に負えない大きな問題だ。いいかい、これは世界じゅうにいる仲間たちから聞いた話なんだけど……あ、印刷機には印刷機同士のネットワークというものがあってね。ケニアの印刷機もロシアの印刷機もイタリアの印刷機もペルーの印刷機もアフガニスタンの印刷機もスイスの印刷機も、ぼくにとってはみんな仲間だ。ところが人間ってやつは実にやっかいで、せっかく同じ人間だっていうのに、なにかっていうと別だとか違うとか偉いとか偉くないとかいいだすんだな。そのせいなのか、いま世界のいたるところでどうにも不穏な動きが多すぎる。どこの地域の印刷機だったか、ずいぶん物騒なものを印刷させられて、かわいそうに、キーキー悲鳴をあげていたって話を耳にした。考えたくもないけれど、ぼくやぼくのとなりに並んでいる仲間だっていずれそんなことにならないとも限らない。まったく、おかしな人間の思惑ひとつでとんでもないものを印刷させられるこっちの身にもなってほしいよ。いくら世界の印刷機同士が仲間でも、人間が争えばぼくたちもとばっちりを受けるんだから。
だからお願いだ。まずは、いまぼくが印刷した白地図を持って、旅にでてほしい。そして世界でいったいなにが起きているのかを、ことばを学びながら知ってほしいんだ。ああ、旅といってもことばと心の旅だから、とりあえず本が読めれば大丈夫。案内人にはロシア文学の翻訳をやっている奈倉さんという人を呼んでおいた。奈倉さんはかつてロシアの首都モスクワにある文学大学っていうところに通っていて、いまは日本の大学でロシア語やロシア文学を教えたり、文学作品の翻訳をしたりしているんだって。あ、それから、この本にはいろいろ仕掛けをほどこしておいたから、そのあたりも楽しんでくれたら嬉しいな。さあ、善は急げだ、いってらっしゃい!
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