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【シリーズ「あいだで考える」】奈倉有里『ことばの白地図を歩く――翻訳と魔法のあいだ』の「はじめに」を公開します

2023年4月、創元社は、10代以上すべての人のための新しい人文書のシリーズ「あいだで考える」を創刊いたしました(特設サイトはこちら)。

シリーズの3冊目は、
奈倉有里『ことばの白地図を歩く――翻訳と魔法のあいだ』
です(6月10日発売予定)。
刊行に先立ち、「はじめに」の原稿を公開いたします。

『ことばの白地図を歩く』は、ロシア文学の研究者であり翻訳者である著者が、自身の留学体験や文芸翻訳の実例をふまえながら、他言語に身をゆだねる魅力や迷いや醍醐味について語り届ける一冊です。
「異文化」の概念を解きほぐしながら、読書体験という魔法を翻訳することの奥深さを、読者と一緒に“クエスト方式”で考えます。

また、装画・本文イラストは小林マキ、装丁・レイアウトは矢萩多聞(シリーズ共通)が担当。私たちが本の中で体験する物語世界と、日々生きている現実世界とは切り離されたものではなく、地続きであり互いに浸透し合うものであることを訴えかける一冊となっています。

現在、6月10日の刊行に向けて鋭意制作中です。まずは以下の「はじめに」をお読みいただき、『ことばの白地図を歩く』への扉をひらいていただければ幸いです。

はじめに ——印刷機からのメッセージ

 ああどうしよう。困ったことになったぞ。
 おや、きみは新顔だね。はじめまして。ぼくはいまきみが手にしている白地図を印刷した印刷機だ。えっ、印刷機がしゃべるもんかって? まあまあ、しゃべったっていいじゃないか。だってこれから出かける世界には、妖怪ようかいもいるし迷信めいしんもあるし学者先生もでてくるし、おまけにきみは魔法まほうが使いたいっていうんだろう? じゃあ印刷機だっておしゃべりするさ。
 それより、困ったことになったんだよ。ぜひきみの手をかしてほしい。
 世界にはたくさんの人がいて、いろんなことばがあるってことは、きみも知っているだろう。人々は飛行機で空を飛んで遠いところの人と出会ったり、インターネットで地球の反対側の人とメールやチャットでやりとりしたり、どこかに集まって一緒いっしょに絵をいたり歌をうたったりして、仲良くなってきた。
 ところが最近ぼくが少し気をいていたあいだに、おかしなことがたくさん起きているらしい。なにしろぼくは印刷機だから、ことばのことにかけちゃ、まんじゃないけどけっこう目ざといんだ。誤字だつや年号のちがいなんて、作者も校正者も気づかなかったところに、ぼくが気づくこともある。気づいたところでしょせん印刷機だから印刷するしかないんだけど、そういうときはわざとふだんより大きな音をたてて「ガガッ」とか「ゴゴッ」とかいってやることにしている。
 でもいま困っているのは、ぼくがちょっとガーガーいったところで手に負えない大きな問題だ。いいかい、これは世界じゅうにいる仲間たちから聞いた話なんだけど……あ、印刷機には印刷機同士のネットワークというものがあってね。ケニアの印刷機もロシアの印刷機もイタリアの印刷機もペルーの印刷機もアフガニスタンの印刷機もスイスの印刷機も、ぼくにとってはみんな仲間だ。ところが人間ってやつは実にやっかいで、せっかく同じ人間だっていうのに、なにかっていうと別だとか違うとかえらいとか偉くないとかいいだすんだな。そのせいなのか、いま世界のいたるところでどうにもおんな動きが多すぎる。どこの地域の印刷機だったか、ずいぶんぶっそうなものを印刷させられて、かわいそうに、キーキー悲鳴をあげていたって話を耳にした。考えたくもないけれど、ぼくやぼくのとなりに並んでいる仲間だっていずれそんなことにならないとも限らない。まったく、おかしな人間の思惑おもわくひとつでとんでもないものを印刷させられるこっちの身にもなってほしいよ。いくら世界の印刷機同士が仲間でも、人間が争えばぼくたちもとばっちりを受けるんだから。
 だからお願いだ。まずは、いまぼくが印刷した白地図を持って、旅にでてほしい。そして世界でいったいなにが起きているのかを、ことばを学びながら知ってほしいんだ。ああ、旅といってもことばと心の旅だから、とりあえず本が読めればだいじょう。案内人にはロシア文学のほんやくをやっているぐらさんという人を呼んでおいた。奈倉さんはかつてロシアの首都モスクワにある文学大学っていうところに通っていて、いまは日本の大学でロシア語やロシア文学を教えたり、文学作品の翻訳をしたりしているんだって。あ、それから、この本にはいろいろけをほどこしておいたから、そのあたりも楽しんでくれたらうれしいな。さあ、善は急げだ、いってらっしゃい!

印刷機に背中をされた。
そのいきおいで1歩、
足をふみだした!

著者=奈倉 有里(なぐら・ゆり)
1982年東京都生まれ。ロシア文学研究者、翻訳者。ロシア国立ゴーリキー文学大学を日本人として初めて卒業。著書『夕暮れに夜明けの歌を』(イースト・プレス)で第32回紫式部文学賞受賞、『アレクサンドル・ブローク 詩学と生涯』(未知谷)などで第44回サントリー学芸賞受賞。訳書に『亜鉛の少年たち』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著、岩波書店、日本翻訳家協会賞・翻訳特別賞受賞)『赤い十字』(サーシャ・フィリペンコ著、集英社)ほか多数。

〇シリーズ「あいだで考える」
頭木弘樹『自分疲れ――ココロとカラダのあいだ』「はじめに」
戸谷洋志『SNSの哲学――リアルとオンラインのあいだ』「はじめに」
田中真知『風をとおすレッスン――人と人のあいだ』「はじめに」
坂上香 『根っからの悪人っているの?――被害と加害のあいだ』「はじめに」
最首悟『能力で人を分けなくなる日――いのちと価値のあいだ』「はじめに」
栗田隆子『ハマれないまま、生きてます――こどもとおとなのあいだ』「はじめに」
創元社note「あいだで考える」マガジン