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【連載】すべてのひとに庭がひつよう 第6回|健康の企て|石躍凌摩

庭師としての日々の実践と思索の只中から、この世界とそこで生きる人間への新しい視点を切り開いていくエッセイ。二十四節気に合わせて、月に2回更新します。

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第6回|健康の企て


 一年をとおして、一月おきに、一つの山へとかよう道中で、つどうつろっていく植物のあらましについて──名前にはじまり、似た種との見分け方、薬効の有無、食べられるかどうか、そのほか何に使えるか、また使われてきたか等々──、植物、野の草にまつわる活動をされている日菜さん、玄道さん(*1)を主催として、講師に野草研究家の山下智道さん(*2)を招いた布陣で仔細に学んでいく野草塾にかよいはじめて、今年で二年目となる。その第四回目が、いつもは隔月開催のところを、夏に一拍おいて十月のある日に、きっかり三ヶ月ぶりにひらかれた。

 山へ這入る前に日菜さんのアトリエに集まり、車座になって参加者の方々と久しぶりに顔を見合わせると、七月に会ったときとはどこか皆、雰囲気が異なって見える。皆して内に鎮まっていくような──それは外見や身なりの変化から来るものばかりではなさそうだった。暦のうえでは秋分も過ぎて、寒露に差し掛かろうとする頃合いに至ってなお、夏が衰えながらも未だながらえるようで、それならそれでと堪え忍ぶのにも馴れていたところに、昨日から急に冷え込んできた。そうした季節の変わり目が、心身の内まで分け入り、それぞれに姿となってあらわれたのかもしれない。

 ここに至るまでに銘々の生活圏で見つけてきた名前の分からない植物について、山下さんに同定してもらうことから始めるのがこの会のならいであったが、久しぶりにひらかれたこともあり、まずはそれぞれの近況を報告しあう運びとなった。あるひとは、最近家族ともども風邪を引いてしまって、それが今ようやく癒えてきたところだと話した。その隣には、今しも鼻炎につらそうなひとがいて、わが身に照らしてもここ数日、鼻詰まりと喉の違和感にずっと喘いでいたところだった。またあるひとは、夏をとおして拭いがたい不調にあったと言い、とりあえず身近にあったローズマリーを漬けた水で頭をマッサージしてみたり、よもぎを煮出して足浴をしてみたり、最近は蓬の蕾を噛むと気持ちがスッとすることに気付いて、本当にいいのかはわからないけれど、とにかく庭にあるもので色々試していたのだと言う。そうした座の声に感じてか、またあるひとの打ち明けたところによれば、娘さんがアトピーになって、ステロイドなど色々な治療を試していく中で、漢方に出合い、ある薬局から処方された薬を飲みはじめたら治まって、春夏はそれでよかったものの、秋に差し掛かってからまた出はじめたそうで、これからどうすればいいか悩んでいるのだと言う。それでひとつお聞きしたいんですが、アトピーには背高泡立草の薬湯がいいそうで、それも50℃で煮出した方がいいと聞いたのですが、合っていますか、と問いかけた。50℃洗いのことなら、私にも聞き覚えがあった。そうすると野菜が美味しくなるらしい。珈琲美美びみの森光さんはそれを珈琲にも応用して、珈琲豆を焙煎する前に50℃で洗って渋みを取っていたという。ところが山下さんは、背高泡立草はタンニンが主成分になるので、むしろ八十度以上の高温でぐつぐつ煮出したほうが成分はよく出ますよ、と受けた。薬湯はそうやってぐつぐつ煮出すのが基本だそうで、よく町中の銭湯で薬草を詰めた袋を湯船に浮かべているのを見かけるが、あれくらいでは香りは立っても、効き目としてはあまり望めないのではないか、と続けた。

背高泡立草

 話は変わるのですが──、山下さんは風邪を引いた時、どのように対処されていますか、とまたあるひとが問いかける。いつしか座の全体に、さながら病院のない村に医者がやってきたような熱が漂っていた。僕はいつも生薬を持ち歩いています、仕事柄旅が多いので、と山下さんは答えた。それは意外に響いた。というのも山下さんは、『なんでもハーブ284』という植物図鑑を、彼の生活において、文字通り284種類の植物を利用することの中で物したひとであったから、きっとおすすめのハーブについて語るのだろうと待ち受けていたらしい。しかし考えてみれば、生薬もまたその大半は植物である。しかもそれは、植物から有効成分を抽出して純化させたものではなく、まさに植物そのものである。

 それから、風邪にも種類があって、背中から冷えてくるようなものについてはこれ、内に熱が籠るようであればこれ、という風に使い分けています、と山下さんの話された具体的な生薬の名はもう忘れてしまったのだが、ここに西洋医学と東洋医学の根本的な違いがあらわれていることだけはわかる。昨年夏に流行病に罹って隔離にまで至った時、それがどのような性質のものであれ、自分もいつかは病気になる可能性のあることを知りながら、なお本当にはそのことを受けとめていなかったことに、病身になってはじめて思い知らされたものの、そこで打ちひしがれるよりは、せっかく病を得たのだからという心になって、これを機会に病気、健康、医療について腰を据えて考えてみようと読んできた本の言葉の数々が、座の声に今しも呼びさまされるようだった。

 感冒の治療を例にとりましょう。
 西洋医学では、溶連菌による扁桃炎には抗生物質を、インフルエンザには抗ウイルス剤を、というように病原体ごとにヽヽヽヽヽヽ治療するのが王道です。しかし現実は、ライノウイルスやコロナウイルスなど、感冒を引き起こす多くの病原体には治療薬は存在しません。ですから、溶連菌またはインフルエンザの場合を除けば、感冒の患者がやってきたら「お引き取りください」と言うのが“まっとうな”西洋医学の治療ということになります。
 とはいっても追い返してばかりでは申し訳ないので、熱が出たら解熱剤、咳が出たら鎮咳剤、痰が出たら去痰剤と症状ごとに薬を出されることが多いでしょう。そうするとだいたい出す薬はいつも同じになってしまいます。  解熱剤・鎮痛剤・去痰剤などがセットになった「総合感冒薬」というものがあって、風邪だったら半ば条件反射的に総合感冒薬を出すことが一般的に行われています。これは治療ではなくいわば一時しのぎであって、総合感冒薬は決して「感冒治療薬」ではないのです。
 一方、東洋医学ではどうでしょうか。
 病原体ではなく、発熱や疼痛、腫脹といった症状、すなわち病原体と闘うために身体が起こしている反応(抗病反応) に注目します。 病原体を効率よく排除できるように、抗病反応を“適正化”することが治療の要諦ようていと考えるのです。

──津田篤太郎『漢方水先案内 医学の東へ』(*3)

 感冒とは、いわば風邪のことである。その原因となっている病原菌が明らかで、かつそれに適した薬があれば、因果を結んで治すこともできる。それができないのであれば症状を抑えにかかるのが西洋医学で、東洋医学はそうではなく、治すというよりは、治るように身体がはたらくのを助けるという風に考える。視点が病気にあるか、身体にあるかの違いとも言える。山下さんが症状に合わせて生薬を使い分けるのも、病気そのものというよりは病身を見ているという点で、東洋医学にかようところがある。

 アトピー性皮膚炎についても、西洋医学はこれを抑えようとして、たいていはステロイドを処方するそうだ。そうしてアトピーにかぎらず、病気というのは突き詰めればほとんどが炎症であるために、ステロイドはそうした多くの病気に対して効果を発揮することから魔法の薬とも言われるそうだが、まさにそこに落とし穴があるとして、医師の本間真二郎は次のように語る。

炎症とは、熱や痛みをともなって赤く腫れ上がるなど、つらい症状ではあるのですが、 必要があるから出てくるものなのです。そのほとんどが、傷んだ組織の修復のためにおこり、病気が治るための必要なステップなのです。それを、ステロイドによって症状を強力におさえてしまうことは、病気が治る過程も抑制することになるのです。

──本間真二郎『感染を恐れない暮らし方』(*4)

 症状が見た目に悪いものとして映っても、あるいはそれは必要があるから出てきたものかもしれない、と見ることは、庭にも通ずる。例えば虫が木に大量に発生して、薬を撒いてほしいと一報が入る。いざそこへ伺ってみると、たいていは木が鬱蒼と生い茂って暗く、光と風が通らないせいだと見えてくる。ここでなすべきことは薬剤散布ではなく、剪定によって光と風を通すことだと見るのが庭師の見方であり、それはまた、部分ではなく全体を見て、そのバランスを調整することで結果的に治るように促す、漢方で言うところの本治法とも重なる。虫の知らせとは、このことである。

 またある日のこと、虫の知らせに呼ばれてみれば、庭の草が根こそぎにされている。こうなると、草があればあらけていた筈の虫たちは、施主が大切に育てている木に集中しやすくなる。草がないために虫の種類もおのずとかぎられて、その天敵となる虫も鳥もやって来ないために独占状態となっている、と見立てた。施主は木を大切に思うばかりに、草が木の栄養を取っているのではないかと慮って草をまめに抜いていたそうだが、草もまた、見た目に悪者として映ることがあったとしても、必要があるからそこに出てきたのである。

 雑草は必要のあるところにしか生えてこないので、ここに生えてほしいと思っても、そういうわけにはいかない。おもだったすべての雑草が生える庭、というのはなかなかないので、そう考えると、またそこに何か意味があるのかもしれない。
 じつは、雑草は「すべての土壌を改良できる」と言われている。土壌の改良は園芸植物や野菜にはできないそうだ。知り合いの農業をやっている人たちは、それまで農薬や化学肥料を使ってきた土地を借りて畑づくりを始めた最初の数年は、雑草がひどく生えると口々に言う。それは、「土壌の汚染を雑草が浄化してくれているからだ」と言う人もいる。
 たとえば、スギナを嫌う人は多い。その理由を聞くと、「酸性土壌に生えるから」。だが、スギナが土壌を酸性にしているわけではない。スギナは酸性土壌に真っ先に生えて、枯れたときには自らがつくり出したカルシウムで土を中和する方向へもっていってくれる。だから、スギナが生えたあとに、いろいろな植物が生えることができるのだ。

──ひきちガーデンサービス(曳地トシ+曳地義治)『雑草と楽しむ庭づくり』(*5)

 ひとによって撹乱された土地に生えてくるものが、いわゆる雑草と呼ばれる草たちで、山と里では里の方がより多くの草で賑わう。とそう思えば、草たちがそこに生えてくるということは、撹乱されてきた土地の、回復の過程にも見えてくる。そうして、嫌われものかもしれないが、スギナといえば、玄道さんが野草茶をつくるときには頻出の草ではなかったか。思えばこの会にかよいはじめて二年が経とうとしているが、今年の枇杷クラスの面々から、以前の菊クラスでともに学んだひとたちもふくめて、誰からも雑草という言葉を聞いた覚えがない。雑草というのは、単にその言葉を口にするひとが草を知らないがための言い草であって、草にはすべて名前があり、ときに薬効があり、そこに存在する意味があるということを、繰りかえし野に学んできたひとにとっては不要な言葉であるばかりか、そこにおのずとふくまれる揶揄の調子が言霊となって、ひとを草から遠ざけることになってはいないか。

 露草が、今年は今ごろ咲いていますね、と背後から声が立った。見ると青い花が寒そうに、寄り集まって咲いていた。つれてそこを通りかかった参加者たちの、まぁ、露草が今ごろ、という声が山中に木霊する。この秋は不思議と、いつも元気に見えるひとたちも体調を崩しているようですよ、と山に這入る前に、ひとしきり薬や病について語ったことの締めくくりに、山下さんの添えた言葉が重なる。こうした不具合を、植物はなによりも感じているのではないか、とひとは花に見て、そうしてわが身と照らし合わせる。山を歩いていると、自然に耳を澄ます心になる。その自然には自分もふくまれていることを、一歩ずつ、たしかめる歩調になる。

 ひとの名前みたいな花が咲いている。有田草。葉の頃の姿なら、またいつかの野草塾で見た気もするが、花が咲いているのを見るのはこれがはじめてであった。さわってみるといい香りがしますよ、と山下さんが言う。ちぎってかぐと、驚くほど澄んだ香りがする。メキシコ人はこれをパスタにして食べるそうだが、パスタに合いそうな香りでもない、とそう思うのは、私の了見が狭いだけなのかもしれない。ところがこれが、日本人には毒だそうだ。御先祖様が食べてこなかったために、消化酵素を持ち合わせていないらしい。遅くても江戸時代ぐらいから食べられているのが理想だと言う。この身体が何を覚えているのか、知れたものではないと思う。いまを生きるというだけで、すでに一身を超えている。

有田草

 何か忘れていたことを、ふっと思い出したように甘い香りが立って、その出所をつきとめようと嗅覚を研ぎ澄ますと、風の加減か、またどこからともしれない野焼きの匂いがかぶさってくる。鼻が駄目なら、と遠くをぐるりと見渡す先に、白くけぶるように、いまを盛りに、ひいらぎ木犀もくせいの花が咲いている。白々と、もう散りはじめている。

 現の証拠は北に行くほど白いという。ここら南ではもっぱらマゼンタに、中部ではその間をとって桃色に咲くという。先日急にお腹を壊したとき、これを乾かしてから煎じるとよいと知りながら、そうも言っていられずに生のまま煮出して飲んでみたら、すっと痛みが引いたのには驚いた、と日菜さんの言ったことがうらやましく、腹を壊してみたい、とあらぬことを思った。

柊木犀

 アトリエに戻り、また元の車座について、きょうのことを振り返りながら、玄道さんのいれてくれた野草茶が身体に沁み渡るころになると、いつしかまたあの話の続きが、いつまでも話していられそうな熱をもって、話し手の順繰りに、聖火のようにうつっていく。そうして話し手が、玄道さんにうつる。

 皆さん、色々抱えているようですけれど、私も以前はそうだったんです。今はぜんぶクリアになって、健康体そのもののようですけれど、アトピーもあったし、花粉症もあったし、それはもう大変でしたよ。はじまりは、アトピーでした。これがなかったら、今の野草の仕事はなかったと思います。それからきわめつけは、目の病気でした。先天性の、目が見えなくなる病気です。夜になると視界が霞んで、車を運転するのもこわいくらいで。医者にかよったり、それこそ漢方薬も飲みましたし、色々試しましたけれど、思うようにはいかなくて。それでもう、決めたんです。自分で治そうと。それから色々学びました。マクロビやら、電磁波やら、本当に色々、そうしてその中に、野草があった。だから、きっと、これが効いたとかそういうことではなく、野草を入り口として、生活も何もかも変わったことが、今に繋がっているのだと思います。それでこうして、野草を伝えているのです。今では野草茶人なんて名乗ってしまって。それでも、これが天職だと思っています。

 と、玄道さんの話を聴いているうちにドゥルーズの、最晩年に書かれた『批評と臨床』の第一章「文学と生」の、次のような文章が思い出される。

 人はみずからの神経症を手立てにものを書くわけではない。神経症や精神病というのは、生の移行ではなく、プロセスが遮断され、妨げられ、塞がれてしまったときに人が陥る状態である。病とはプロセスではなく、 プロセスの停止なのだ。──たとえば「症例ニーチェ」におけるように。それゆえ、そのような存在としての作家は病人なのではなく、むしろ医者、自分自身と世界にとっての医者である。世界とはさまざまな症候の総体であり、その症候をもたらす病が人間と混同される。文学とは、そうなってくると、一つの健康の企てであると映る。

──ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』(*6)

 ここでドゥルーズは、あくまで文学について語っているのだが、病人なのではなく、むしろ医者、自分自身と世界にとっての医者というのは、図らずも医者の原型を貫いているのではないか。つまり最初の医者は、病人だったのではないか、と。鬱病を治すのが上手いのは鬱っ気のある医者だと聞いたこともある。玄道さんも、あるとき病み、それを治すために色々と試していった末に野草と出合い、そこから回復に至ったものの、そこに留まらず、今でもみずから草を嘗めて、でき得るかぎりはお茶にして、場をしつらえては、ひとに供している──そのありようは、かつて人類に薬となる植物の効用を、みずからの身体で試して教え広めたとされる古代中国の神さま、神農のようである──。そこでひとは一息ついて、茶になっている草とあらためて出合い直したり、野草茶を自分の生活にも取り入れることで、みずから回復に向かっていく。回復から、恢復(*7)へ。病人から、自分自身と、世界の医者へ──そうなってくると、この野草塾もまた、一つの健康の企てであると映る。

 いつしか日も暮れて帰路につく。山から切ってきた柊木犀を花瓶にいける。摘んできた青水は、刻んだ大蒜にんにくと生姜と一緒に、ごま油で炒めて塩で味を調える。さわるとはじけ飛ぶ面白さにひとしきり興じた藪蔓小豆の種は、土鍋に七部づきのお米と炊き込む。それらを食卓にあげて、土鍋の蓋を開けてみると、色にしても風味にしても、さほどの変化は感じない。それでもこうした些細なことのひとつひとつから、ひとは自然にひらかれてゆき、おそらくはまた回復から恢復へと至る道を歩きはじめるのではないか、と手を合わせた。

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*1 日菜さん、玄道さん
野の草、植物の活動をのの艸、足元の草たちの摘み茶活動を野草宙として、月に一度、御供所町で花屋と喫茶が合わさったようなお店つむぎを開かれている。

摘み草花 つむぎ
https://instagram.com/tsumugigarden?igshid=YmMyMTA2M2Y=

野草宙
https://instagram.com/yasousora?igshid=YmMyMTA2M2Y=

のの艸
https://instagram.com/nonokusa_?igshid=YmMyMTA2M2Y=

*2 山下智道
野草研究家。福岡県北九州市出身。登山家の父のもと幼少より大自然と植物に親しみ、野草に関する広範で的確な知識と独創性あふれる実践力で高い評価と知名度を得ている。国内外で多数の観察会・ワークショップを開催。TV出演・雑誌掲載等多数。(HPより転載)
現在はヨモギ図鑑を鋭意制作中とのこと(たのしみ!)
https://www.tomomichiyamashita.com/profile-1

*3 『漢方水先案内 医学の東へ』(津田篤太郎、医学書院、2015) 29-30頁

*4 『感染を恐れない暮らし方 新型コロナからあなたと家族を守る医食住50の工夫』(本間真二郎、講談社、2020)206頁

*5 『雑草と楽しむ庭づくり オーガニック・ガーデン・ハンドブック』(ひきちガーデンサービス(曳地トシ+曳地義治)、築地書館、2011)162頁

*6 『批評と臨床』(ジル・ドゥルーズ 、守中高明・谷昌親訳、河出文庫、2010)16-17頁

*7 回復はもともと恢復の書き変えであり、どちらも同じ「もとに戻る」意味とされているが、なお「恢」には、「ひろい、おおきい、盛んにする」という意味も含まれるそうで、私が恢復という表記を使うときには、病気であれば、単にそれがもとに戻る(治る)というのではなく、病気以前にもまして息づいていくようなイメージを込めている。

◎プロフィール
石躍凌摩(いしやく・りょうま)
1993年、大阪生まれ。
2022年、福岡に移り住み、庭師として独立。
共著に『微花』(私家版)。

Instagram: @ryomaishiyaku
Twitter: @rm1489
note: https://note.com/ryomaishiyaku

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第1回 はじめに
第2回 私という庭師のつくりかた
第3回 うつわのような庭
第4回 胡桃の中の世界
第5回 鳥になった庭師