石躍凌摩

石躍凌摩

マガジン

  • 「月白にて」

    2019年12月から、毎月きまって 月の最終日曜夕方に、月白を座として行う口語連載。 書いて考える日々と、話して考える場の連絡として、 これを生きる習慣に据える試みです。

最近の記事

治すというより、治る

今年の二月に、植物の調子が全体よくないとのことで土中の環境改善を施した庭の、その後の様子を今日見に伺った。 庭をつくる際には、土中の環境のこと、とりわけ水と空気の流れにいつも気を配って作業してきたが、あらかじめそうした造作がなされていない庭に、あとから治療を施したことはこれまでなかったので、果たして本当に効果があらわれるのか、施主はもちろん、私としても心許なく、なかばは賭けだった。 植栽はすべてマウンドをつくってなされていたので、まずはその周囲に溝を掘り、さらに点々と縦穴

    • 世界を止める

      Tの家財道具を私の軽トラに積んでから、大阪へ向かうフェリーにはまだ少し時間があったので、彼が毎日散歩していた西公園を最後に二人で散歩することにした。かつては荒津山と呼ばれた標高50mに満たないその公園の、山を偲ばせる昇り降りの道には折柄さくらが満開に届きそうで、その周囲には花見客がたくさん集っていた。 ——花なんて、誰も見てないですね。 ——そうですね。僕も、花見では人を見ますよ。 ——そうか、たしかに、人も見ますね。"人間"やってるなぁって。 一夜明け、Tの移住の助

      • PERFECT DAYS

        映画にあまり関心のない私にも、めずらしく賛美両論聞こえてきたので、久しぶりに映画館まで行って観た。主人公平山の務める清掃員という、世界の現状維持の為の仕事や、彼の毎日やることの変わらない日課的な生活——これは隠居という在り方を描いた映画だと観て思った。つまり、世界を変えることも、世界に変えられることも拒絶するひとの。だから、この映画に対して多く見られる現実的じゃないという批判は当たらない。そもそもが平山という、現実(=数ある世界の暗部)を見ないことを選んだ人間を描いているから

        • 薄黄木犀

          月毎に手入れに伺っている游仙菴には毎年、金木犀に数日先がけて薄黄木犀が咲く。薄い黄色の木犀でウスギモクセイ。 はじめ施主の美奈子さんからは銀木犀だと聞いていて、花の咲かないうちは金も銀もわからないままに秋がきて、そうして咲いてみれば、香りも花色も少し様相が違う。調べてみてはじめて、それが薄黄木犀だとわかった。金木犀と比べて香りが柔らかくて品があり、中々見られないこともあって気高い感じがする。 花は一週間保てば良い方で、本当に良い時は数日である。昨年の花時にはどれだけ花が保

        治すというより、治る

        マガジン

        • 「月白にて」
          4本

        記事

          散歩の語源

          「散歩の語源って知ってますか?」 とある日の月白で、連載「すべてのひとに庭がひつよう」でも度々登場するTにそうきかれた。これといって目的のない歩行というイメージから、読んで字の通り散漫な歩行というほどの意味だろうか、とその答えを待っていると、 「昔、中国の医学では、あえて毒を飲むという習慣があったそうで、その毒を散らすために歩いたことが、散歩という言葉のはじまりらしいです」 と、そう聞いて、私の普段している散歩も、思えば自身のどうしようもない鬱気質を、どうにかまぎらわす

          散歩の語源

          「雨庭」について

          連載を読んでくれている作中でも何度か登場するTは、いつも感想ではなく、読んで考えたことを伝えてくれる。 きょうは「雨庭って、いつからある言葉なんでしょうね」と。私はそれを考えなかった。 けれど、かつては雨庭と言わずとも、当然自然に雨は地中に浸透しただろうから、おそらくは新しい言葉ではないか、と私は答えた。 あとで調べてみると、それは1990年に、アメリカ合衆国のメリーランド州で、下水道の負荷軽減、水質浄化、地下水涵養などを目的とした治水対策の一つとして生み出されたそうで、日

          「雨庭」について

          蛍袋の花

          毎月同じ庭を訪れるということを繰り返していると、そうでなければ見ることのできない景色に出合う。 先日伺った游仙菴に、昨年七月から毎月伺っては手入れするということを続けてきて、そうして初めて迎えた六月に、蛍袋の花が初めて咲いた。もっともそれは毎月伺う中で、ここにある植物はたいてい名ざせるようになってなお正体が分からず、この姿形はなんの葉っぱだろう、ついてはどんな花が咲くものだろう、と草刈りをしながら見守っていたものでもあったのだが、来月はここにかよいはじめて一年になるという節目

          畑から庭へ

          大阪のとある場所の造園依頼があって、その打ち合わせのために数日帰阪していた。ひとりで成せる規模でもなければ、普段は福岡に居るということもあって先輩庭師のsuzumeこと西田さんに応援を頼み、その打ち合わせに共に伺った後、もうすこし滞在するならこっちの仕事も手伝ってほしい、と彼があるときからDMのデザインを請け負っている「Dtree gallery」という、堺にあるギャラリーの裏庭制作に参加した。 そこは元々畑で、Dtree 店主の林さんのお母さんが生前に様々な野菜を育ててい

          畑から庭へ

          甘茶

          昨年十月に二本木で展示されていた彫刻作品群に衝撃を受けて以来、いつかお会いして見たいと思っていた彫刻家・新庄良博さんのお家のお庭に、先日縁あって伺うことが出来た。 石躍くん、アマチャって知ってる?と、そこへ向かう車中で二本木店主の松尾さんに尋ねられて、アマチャという名前に聞き覚えはあったものの、実際はよく知らないと言うと、新庄さんが今度つくる二本木の庭にどうかって、庭から苗を掘り出してくれてるみたいで、と松尾さんが言う。気になって調べてみると、ヤマアジサイの変種のようで、見

          用無し

          「きょうは草刈りだけですか?」 「そうなんです。木はいいって、主人が。前回にヒタキさんから教えてもらった切り方で、自分でもやってみたらしくて」 「そうだったんですね。あ、あのキンカンとかそうですか?」 「あぁ、そうです。昨年はたくさん実がなりました」 「枝が透いて、陽がよく当たったのかもしれないですね」 かねてから自分の庭師としての仕事は、施主の代わりに何でもやるようなサービス業というよりは、自分が庭に働きかける中で、次第に施主自身が庭師になっていくということがひと

          啓蟄迄

          二十四節気を目安に置いて、立秋より始まった連載「すべてのひとに庭がひつよう」ですが、冬至に公開となった第9回までを第一章とし、第二章からは別のリズムを取ることになりました。 今しばらくの冬籠りの後、生命の湧き立つ啓蟄——3月6日に再開し、以後は三週間置きに更新予定です。 何卒よろしくお願い致します。 以下は余談として—— 啓蟄の蟄(ちつ)とは何かと申しますと、虫たちが土中で冬籠りをすることだそうで、それが春三月に地上に這い出ていのちを啓(ひら)くことを啓蟄(けいちつ)

          聴くこととしてのエッセイ

          T 話の聴き方って、習わないですもんね。 石躍 そうですね。 月白 俺が聴くことを意識しはじめたのは、『聴くことの力』を読んでからだと思う。 T そういえば、僕もそうですね。 石躍 へぇ、二人とも。 T あれって、聴くこととしての哲学なんですよね。 石躍 聴くことの哲学じゃなくて。 T そうそう。 石躍 「哲学はこれまで喋り過ぎた…」ってね。そういえば僕の今回の連載も、それかもしれないです。聞こえてきたものを書いている。 瀀 そういえば、前回の踊りについての

          聴くこととしてのエッセイ

          草にすわり、草を編む

          去る七月の野の喫茶(*1)にて、写真家の椿野恵里子さんと、彼女の庭の力芝から編んだという帽子に出合ってから、自分もいつかつくってみたい、機会があれば教えてほしいと話していたことが、先日開かれた「ノノクサ会 霜降 草にすわり、草を編む」(*2)において叶った。 わたしのまちがいだった わたしの まちがいだった こうして 草にすわれば それがわかる ——八木重吉「草にすわる」 この詩の朗読を皮切りとして、「ノノクサ会 霜降 草にすわり、草を編む」は始まった。間違いという、

          草にすわり、草を編む

          枯れ枝と蝉の出来事

          二十四節気、寒露につき 連載「すべてのひとに庭がひつよう」 第五回が更新された。 題して「鳥になった庭師」 この中で、スズメになった庭師の西田が、剪定途中の木の枯れ枝に傷がついているのを発見して、これは蝉が卵を産んだ跡やから、と切らずに取っておいたことに触れたのだが、それを西田は箕面公園昆虫館の元館長・久留飛克明さんのツイートに知ったそうで、今朝方、次のようだったと送られてきた。 つまり庭とは、単にそこに植物が生えている場所なのではなく、蝉が卵から孵化していずれ成虫にな

          枯れ枝と蝉の出来事

          花道

          月一の手入れを約束している游仙菴まで車を走らせていると、ちょうど福岡市から那珂川市の境にある山をひとつ越えた辺りでふっと、金木犀の香りが立った。今季初だった。金木犀の香りはいつも、この季節になればそろそろ来るだろうと心のどこかで待ち構えていながらも、きまって不意にやってくる。奇襲という言葉が似合うと思う。 そうしてふと、いま香ったということは、これから向かう游仙菴の、去る七月に剪定をした銀木犀の花は早くも散ってしまったかと思われた。施主の美奈子さんによれば、游仙菴の銀木犀は辺

          偶然の散歩

          ——という、独立研究者・森田真生さんの投稿を見かけて、私はこの偶然に乗ってみようと思った。ちょうどこの数日前に、京都で開かれた友人の結婚パーティーのために福岡から帰阪して、別の予定をいくつか済ませてからまた福岡へ帰るという一週間ほどの滞在の中で、この日は偶然予定もなく、ただ漫然と過ごすつもりでいたのだった。 森田さんのことは、『数学する身体』が刊行されて以来、本屋で見かけるたびにそのタイトルに惹かれるという仕方で気になっていた。そうして数年後、微花が復刊したタイミングで鼎談

          偶然の散歩