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世界を止める

Tの家財道具を私の軽トラに積んでから、大阪へ向かうフェリーにはまだ少し時間があったので、彼が毎日散歩していた西公園を最後に二人で散歩することにした。かつては荒津山と呼ばれた標高50mに満たないその公園の、山を偲ばせる昇り降りの道には折柄さくらが満開に届きそうで、その周囲には花見客がたくさん集っていた。

——花なんて、誰も見てないですね。

——そうですね。僕も、花見では人を見ますよ。

——そうか、たしかに、人も見ますね。"人間"やってるなぁって。


一夜明け、Tの移住の助っ人を無事に終えて私は実家に戻り、昼寝をとってから散歩に出かけた。さくらを見ようと思っていた。福岡のとくらべると、開花はいまだまばらだったものの、それでもTの移住を機会に思いがけず、こっちのさくらを見れたのは仕合わせだった。福岡のさくらよりも、こっちのさくらの方がまだ馴染みがあったから。

こんなにも花をつくづくと見たのは、随分とひさしぶりに思われた。三月はやたらに忙しかったのだとそこで気付いた。私のようなものは、もっと花を見ないといけない。でないとすぐに忙しくしてしまって、どうもいけない。

花を見ることはだから、私にとってはこの世界を止める方法なのかも知れない、とそう思った。いや、見るくらいでは足りなくて、足ふみ留めて、腰据えて、じっくりと見つめて、はじめて世界が止められる。そのときはじめて、自分の見えている世界の外にも世界があることを思い出すことができる。

花見とは、この世界を止めること。そうして、花はさくらにかぎらない。だとすれば庭は、自分の見えている「世界」がこの〈世界〉のほんの一部にしか過ぎないことを忘れないための、あるいは思い出すための儀式でもあるのではないか。

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