「雨庭」について
連載を読んでくれている作中でも何度か登場するTは、いつも感想ではなく、読んで考えたことを伝えてくれる。
きょうは「雨庭って、いつからある言葉なんでしょうね」と。私はそれを考えなかった。
けれど、かつては雨庭と言わずとも、当然自然に雨は地中に浸透しただろうから、おそらくは新しい言葉ではないか、と私は答えた。
あとで調べてみると、それは1990年に、アメリカ合衆国のメリーランド州で、下水道の負荷軽減、水質浄化、地下水涵養などを目的とした治水対策の一つとして生み出されたそうで、日本においては、小石を敷き詰めて水の流れを表現した枯山水の、水のないところに水を感じる意匠に、雨が降ると一時本当に水が流れて、少しの間たまって、水はけのよさからやがては浸透していくという雨庭の機能を持った庭園が、昔から随所にあったらしい。
私が今回の連載で書いた「雨庭」は、雨の対処を主題においた庭ということではかならずしもなく、しかし庭をつくることはおのずから、この時代においては雨について考えざるを得ないということを思って書いた。つまり庭があることで、人はもっと雨という現象にひらかれるのではないか、と。
庭とはだから、雨をより見つめるための藝術だと言えるだろう。そうした庭を、二本木というアートギャラリーの門前に常設展として位置付けること、ひいては庭の新しい定義をつくることが、実際に庭をつくるだけでなく、その作庭記を書くことの主眼だった。
写真はとある雨の日の二本木で、窓の外に覆いとして吊した障子紙が、雨に濡れて独特の様相をあらわにした絵。それが絵と感じられたのは、二本木で展示されていた絵をひとしきり見たその眼で見たからだったろう。その眼に、今度つくった門前の庭はどう映るか。
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