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花道

月一の手入れを約束している游仙菴まで車を走らせていると、ちょうど福岡市から那珂川市の境にある山をひとつ越えた辺りでふっと、金木犀の香りが立った。今季初だった。金木犀の香りはいつも、この季節になればそろそろ来るだろうと心のどこかで待ち構えていながらも、きまって不意にやってくる。奇襲という言葉が似合うと思う。
そうしてふと、いま香ったということは、これから向かう游仙菴の、去る七月に剪定をした銀木犀の花は早くも散ってしまったかと思われた。施主の美奈子さんによれば、游仙菴の銀木犀は辺りの金木犀よりもすこし先がけて咲くということだったから。
ところが游仙菴について車を降りると、銀というよりも金の香りが、さっき車内に伝ってきたよりもいっそう濃やかに漂っている。これはどういうわけだろうと入り口の向こうにそびえる銀木犀の方を向くと、木の全体にびっしりと花のついている様子が遠目にも伺えたことにひとまず安堵して、仕事の準備にとりかかった。


まずは庭全体の草刈りから。秋になり多くの草の勢いは落ち着いたものの、秋分に公開された連載「すべてのひとに庭がひつよう」の第四回「胡桃の中の世界」にも書いた苧麻だけが、やはり今回も何事もなかったかのように生い茂っており、いくらかは紐を縒るためにありがたく取っておくことにした。広大な庭のすべてを一日で触ることはできないため、今回は縁側から見える椿を刈り込み仕立てから自然樹形へと伸びやかにひらいたあと、躑躅もいくつか同様に、それから落ちた銀杏で足の踏み場もない道を掃いて通したり、草抑えのために落ち葉を所々敷き詰めたりと、私が考えて動くというよりも庭があれこれと要求してくるのに従ってあちこちしているうちに、気付くと時間となっている。庭は時間を無尽蔵に食べてしまういきものだとおもう。

帰り際に、せっかくいまが盛りのこの銀木犀は方々へ持って行こうと思って木に登り、枝の形を見ながらいくつか剪定したのをたもとに寄せたときにふと、銀木犀はもっと花が白かった筈ではないか、という思いにかられた。木から降りて調べてみれば、やはり銀ではなく、金でもない、それは薄黄木犀(ウスギモクセイ)という名の、銀木犀の変種であるということだった。金よりも優しく、銀よりも鮮明に、しかしいずれとも似て非なる至福の香りに包まれながら、ひと月分の仕事を済ませた縁側で、美奈子さんのつくった野草茶と栗の渋川煮を頂きつつ、二人束の間の花見に興じた。

花の命は短くて、としおれないうちに游仙菴からすぐの染めもの屋ふくさんの工房に立ち寄って、剪定したばかりの花を手渡すと、あら、金木犀?ときかれて、薄黄です、と答えた。薄いに黄色で薄黄なのだと言い直してようやく伝わったところを見れば、やはり珍しいものらしい。これは桂花陳酒にしようかしら、金木犀を白ワインに適当に漬けるだけで香りがうつって美味しいから、薄黄でもいいかもしれない、ときいて、中秋の名月の月見のときに、月白で飲んだ白ワインの味を思い出した。

最後に月白に花を持っていくと、そのあまりの香りの良さに歓声があがって、庭師が束の間花屋になる至福をあじわった。これが銀木犀?ときかれて、薄黄です、と答えると、薄銀ときこえたようで、いずれ聞き馴染みのない花であった。そのひと枝を居合わせたひとたちと分け合い、もうひと枝を店の花瓶に飾ってもらって、ここでも束の間の花見をした。ひとと見る花もまた格別だと今は思う。
それからあるとき台湾で飲んだ桂花茶を思い出して、和紅茶に花をいくつか散らしてみると、ほのかに香りが立って、秋に酔う心地がした。花も残さず飲み干すと、秋が一段と深くなったような気がした。

帰りに車を走らせながら、思えば先の秋分に書いた「胡桃の中の世界」に出てきた場所に、図らずも花で以って御礼参りをしたような一日だったと気付く。それも花を運んだというよりは、花に運ばれたような一日だった。いや、それは一日にかぎってのことでもないのかもしれない。私が庭師であるということもまた、花に運ばれてのことではなかったか。とすればこの先もまた、いずれ愉快な花道だと思う。

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