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第3回 エクセル×心理学――「名もなき家事」の解像度 │ 山口貴史

「えっ…何これ……」

 エクセルを見た瞬間に声が出ました。それくらい、解像度(と執念)に驚いたのです。

  まずはこのエクセルを見ていただけますでしょうか。

出典元:https://make-from-scratch.com/noname-kaji/

 作者は私の友人の妻です(ご本人から掲載の許可をいただきました)。

 彼女は、なんでもかんでもエクセルにするエクセル大好き人間ではありません。ましてや、こういうエクセルを作る職人でもありません。

 家事と育児をしない夫への怒りが頂点に達した時、夜な夜なパソコンを打ち続け、「このボケ!!」(と言ったかわかりませんが)と送り付けたのが、このエクセルなのです。

 エクセル作成に至った経緯を少し説明しましょう。

 コロナ禍の当時、共働きの友人夫婦には二人の小さな子どもがいました。

 少々(いや、かなり)奔放な性格の友人は、家事をしているつもりだったのですが、事実上は大半の家事を妻が担っていました。

 あの手この手を使って、彼女は家事分担の不平等を訴えました。しかし、友人は「俺だってやってるじゃん」の一点張り。

 “ピンと”来ていなかったのです。

  結果、夫婦はコロナ離婚の危機を迎えました。

 そんな中、「口で言ってもダメなら可視化してやる!」と、このエクセルが爆誕したわけです。

 

「4K」と「ブラウン管」

 なぜ、妻から幾度となく怒られてきたにもかかわらず、友人はピンとこなかったのでしょうか?

 読者の皆さんはどう思いますか?

  友人には、いわゆる「名もなき家事」が見えなかったからでしょう。

 例えば、朝の家事。

 友人は8個挙げているのに対し、妻は45個挙げ、5倍以上の差があります。

 友人の言葉を借りれば、妻は「4K」並み、友人は「ブラウン管」並みの解像度です。

 もちろん、逆の場合もあるでしょうが、多くの夫婦の間ではこのような解像度の違いが生じているかもしれません。

「やっぱり女性ってすごいなあ」

「見える化は大事だな」

  そう思っていた“家事をしているつもり”の私は、はたと気づきました。

 感心している場合じゃなくないか?

「男性にはなぜ見えないのか」について考えないと、いつまで経っても夫婦間の不平等は解消されなくないか?

と、思ったのです。

 今回は、なぜ男性は家事や育児に対しての解像度が低いのかについて考えてみます。

(以下はカウンセリングの事例を挙げますが、私の経験に基づいた架空事例になります)


「父が家事している姿なんて見たことないし。どうしたらいいか分からないですよ」

 これは40代半ばの男性の言葉です。

 彼もまた、夫婦間での家事・育児の不平等によって離婚の危機に瀕していました。自身の幼少期を振り返るなかで、不意にこの言葉をつぶやいたのです。

 子どもは自分の親を「親モデル」として取り込み、自分が父親/夫、母親/妻になった時にそのモデルを参考にして自分の行動を決める人が多いと言われています。

 今の親世代の男性の多くは、「昭和的父親(夫)」を心の中のモデルとしています。昭和的父親は、解像度どころか家事・育児の概念すらない場合が多いでしょう(当事者意識がない)。「男は外で仕事、女は家で家事・育児」の世界観が染みついています。

 今は「令和的父親(夫)」の時代です。「女も男も家事・育児」という平等主義的な子育て・家事をする父親(夫)が求められます。

 つまり、心の中に令和的父親モデルがおらず、未だに「家事する人=母親」イメージに囚われていることによって“家事メガネ”が曇っている。ゆえに、家事に対して解像度が低めであると言えそうです。

 皆さんの心の中の親モデルはどうでしょうか?

 

「なんか、申し訳ないなって」

 これは30代前半の女性の言葉です。

 彼女は仕事と育児の両立に悩んでいました。汚れたままの皿がシンクに溜まり、大量の洗濯物が洗濯カゴを覆いつくし、フローリングにはホコリや髪の毛が落ちている。そんな景色をみると、こう感じて家事を行うと言います。

 仕事と育児でもう体が動かないほどに疲れ果てていたとしても、です。

 家事をしないことに対して、女性の方が「罪悪感」を抱きやすいという話があります。

 精神科医の斎藤環は、母娘の関係の中でケアをしないことに対する罪悪感がインストールされてしまう場合があると指摘しています。母親から離れることで自分のアイデンティティを形成していく男性と比べて、幼少期から同じ女性という体をもつ母親と娘は一体化しやすく、場合によっては母親からの「否定」と「愚痴」による支配を経て、「ケアすべき母親」をケアしないことに罪悪感を抱くようになるのです。

 ケアについての著書がある英文学者の小川公代は、こうした女性のケアへの罪悪感によって家庭の中で家事を手伝わなくてはいけないという思いが強くなったり、しないことに対して罪悪感を抱くようになったりするのではないか、と述べています。

 つまり、罪悪感を抱きやすい女性の方が家事をしなければならない気持ちになりやすく、家事アンテナが敏感(時に敏感過ぎる)ゆえに解像度が上がる、ということです。

 注目したいのは、クライアントの「なんか」という言葉です。この罪悪感は身体感覚のレベルで感知されるものなので、知らず知らずのうちに感じるものなのです。

 皆さんは家事への罪悪感の男女差についてはどう思いますか?

 

「私は妻よりも家事をやっているくらいです」

 これは30代後半の男性の言葉です。

 彼はいわゆるエリートビジネスマンで、忙しい仕事を抱えながら、家事をこなしていました。

 家事への解像度は「高い」と言えそうです。

 しかし、夫婦カウンセリングに一緒にやってきた妻は、苦しそうな顔でうつむいています。まるで有無を言わせない圧がかけられているかのようです。

 後に、「夫の無言の圧力」に苦しんできた歴史が妻から語られました。

 このような男性を「ハイブリッドな男性性」と呼びます。

 男性研究者/臨床心理士の西井開によると、彼らは旧来の男性性に女性性のケア要素を取り入れることで、一見従来の家父長制から抜け出して進歩的に見えますが、実際にはジェンダーの不平等を再生産していることがあります。

 自分は家事を頑張っているのに、(自分の基準で)妻が十分でないと判断し、家事分担に不満を募らせるのです。時に、こうした不満がDVという形をとることもあると言います。

 このような男性像は、実際には男性が女性を支配するという既存の権力構造を維持し続けている可能性があります。

 つまり、家事に対する解像度は高いかもしれないけれど、妻に対する自身の意識や態度への目は曇っているということです。

 

平等って難しい

 家事と育児の平等って、つくづく難しいですね。

 男性は解像度を上げる必要はあるけれど、ただ上げるだけではより巧妙な不平等さを生産してしまうことすらあるのです。

 「見える化」や「役割分担」は大切です。

 ただ、その前に「目」を養う必要があるのかもしれません。

 目は、「心」に左右されます。

 自分のなかにある(あるいは囚われている)親モデルや子育てスタイル、家事に対する罪悪感に目を向けてみると、違った風景が見えてくるかもしれません。

【参考文献】
西井開(2023)「多様化するバックラッシュ」『臨床心理学』増刊第15号、p.98-p.103 金剛出版
斎藤環(2022)『「自傷的自己愛」の精神分析』角川新書
横道誠×斎藤環×小川公代(2024)「ケアする読書会」『ケアする対話:この世界を自由にするポリフォニック・ダイアログ』金剛出版

【文】山口貴史(やまぐち・たかし)
臨床心理士・公認心理師。東京生まれ、大阪・福岡育ち。
2009年、上智大学大学院総合人間科学研究科博士前期課程修了。その後、精神科クリニック、総合病院精神科、単科精神病院など、医療現場を中心にさまざまな現場で臨床経験を積み、現在は児童精神科と開業オフィスにて臨床を行っている。日本心理臨床学会奨励賞受賞(2023年)
著書『精神分析的サポーティブセラピー(POST)入門』(金剛出版、共著)、『サイコセラピーを独学する』(金剛出版、2024年8月23日刊行予定)

【イラスト】楠木雪野(くすき・きよの)
イラストレーター。京都在住。主な仕事に『阿佐ヶ谷姉妹のおおむね良好手帳』のイラスト、web連載『楠木雪野のマイルームシネマ』など。猫とビールが好き。
webサイト http://wasureta-ehagaki.com/
インスタグラム @kiyonokusuki