【連載】異界をつなぐエピグラフ 第10回|これがエピグラフ効果である|山本貴光
第10回|これがエピグラフ効果である
ここまでのところ、いくつかの具体例を通してエピグラフについてあれこれ考えてみた。もちろん、古今東西でこれまで書かれてきた本や文章全体からすれば、ここで触れたのは、そのごく一部の(中略)そのまた一部の(中略)ごく一部に過ぎない。そのつもりで見てゆけば、あちこちにさまざまなエピグラフが見つかる。私たちはまだエピグラフの深い森へ足を踏み入れたばかりとも言えそう。
とはいえ、この連載も予定していた全10回の最終回となった。無理にまとめる必要もないとはいえ、せっかくなのでこの機会に、エピグラフについてもっと知りたくなってきた、という向きのために、少し手がかりとなりそうなことをご紹介して終わりたい。
1.エピグラフのちょっといいとこ見てみたい
一つは、第7回にもご登場いただいたジェラール・ジュネットの『スイユ テクストから書物へ』(★2)だ。書物を構成する各種の要素を検討する同書で、全体からすれば一部とはいえ、第6章がエピグラフに充てられている。そこでジュネットは、「不十分な調査ながら」(同書p.183)と前置きした上で、エピグラフの機能を四つ挙げている。要約すれば、こんなふう。
❶タイトルに対する注釈
❷テクストに対する注釈
❸引用元による保証
❹文化のしるし
それぞれ簡単に説明してみよう。
2.タイトルを説明する
最初の二つは比較的分かりやすいかもしれない。まず「❶タイトルに対する注釈」は、エピグラフが、作品のタイトルに対する補足や説明になっている場合。具体例を見てみよう。私が見かけた例ではこんなエピグラフがある。
これはマギー・オファーレルの小説『ハムネット』の冒頭に置かれた二つのエピグラフのうちの一つである(★3)。ご覧のようにタイトルの「ハムネット」という語を説明している。この小説を手にとって、「ちょっとハムレットに似てるな。パロディかな」と思いながらページを繰ったところにこのエピグラフがあり、「あ、そうなんだ」となった(★4)。
3.本文を説明する
さて、次は「❷テクストに対する注釈」で、これはさらに分かりやすいものかもしれない。エピグラフが、それに続く本文についての説明になっているようなケースだ。
これも私が目にした例から一つご紹介すれば、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』のエピグラフがある。そこには二つの引用が掲げられており、その一つにはこう記されている(★5)。
これはどういうことか。少し説明が必要かもしれない。『聖書』に基づくなら、この世界に存在する生物はすべて、創世の時に神がつくったものである。言い換えると、生物が時代や環境とともに変化するといった事態は想定されていない。神がつくった生物が、現在にいたるまでそのままの形で存在している、という見立てだ。
ダーウィンもどうやら当初はそうした「創造説」を信じていたようだ。それがビーグル号での航海を通じて多様な生物を観察するうちに考えを改め、ついには『種の起源』に示されるような、生物の世代を通じた自然淘汰による変化(変異)という発想に至る。
例えば『種の起源』の結論で、ダーウィンはこんなふうに述べている。
ダーウィンは、いま存在する多様な生物は、神がそれぞれをそのように創造したのだ、という説を否定している。そうではなく、(ここでの引用では省略した個所も踏まえてまとめれば)多様な生物がいるのは、太古から連綿と続くそのつどの生物に生じた変化の結果なのだ。ここでダーウィンは「造物主が物質に課した法則」という言い回しをしている。これは先ほど眺めたヒューエルからの引用に見える「神が定めた一般法則」と呼応する。
通常『種の起源』と省略された形で記される同書の正式な書名は、『自然淘汰による種の起源(On the Origin of Species by Means of Natural Selection)』だった。さらに言葉を補うなら、『神の創造ではなく自然淘汰による種の起源』という意味だろう。また、仮に神の働きを認めるとしても、創造説のように神が多様な生物をそのようにつくったとは考えない。神がつくったものがあるとすれば、生物が自然淘汰によって変化してゆくというその法則がそれだ、というわけである。
いささか込み入った話になったけれど、『種の起源』の冒頭に置かれたヒューエルからの引用は、同書の結論に示された見解を示唆している、という次第を確認したかったのだった。エピグラフが、本文の内容を説明するという例である。
4.守護聖人を選ぶように
次の「❸引用元による保証」とはどういうことか。このケースでは、引用される文章そのものはさして問題ではない、とジュネット先生は言う。そんなことってあるの? と思わず問い返したくなるところ。「引用された作者の名前だけが重要」であるような、そんなエピグラフがあるというのだ。おお。ミモフタモナイことを言えば、自分の文章に格好をつけるためのエピグラフ、あるいは自分の作品をどの先人の名前と結びつけるかという、守護聖人選びのようなものと喩えてもよいかもしれない。
いずれかのエピグラフの例を取り上げて、「言われてみれば、これなどは格好つけのエピグラフですな」とは名指ししづらいので、ちょっと別の話をしてみる。例えば、日本ではあまり知られていない海外の作家の小説を刊行する際、帯などに既知の作家の名前を並べることがある。私がいまでもときどき愉快な気分とともに思い出すのは、アラスター・グレイの『ラナーク 四巻からなる伝記』(森慎一郎訳、国書刊行会、2007)で、その帯にはこう記されていた。
6人でもまだ足りないのか、「+α……」とある。「この欲張りさんめ」と思いつつ、「だって本当にこの6人でもまだ言い尽くせていないんだもの」という編集者の気持ちが表されているようでもあり、なんだか憎めない気もするのだった。
ついでながら、この例には及ばないものの、ローレンス・ノーフォーク『ジョン・ランプリエールの辞書』(青木純子訳、創元推理文庫、東京創元社、2006)の「エーコ+ピンチョン+ディケンズ+007!」というのもあった。
もっとも、帯文の場合、読者に向けて「このうちの誰かがお好みなら、これもいけるかもですよ」と誘いかける文句なのだから、エピグラフと同じとは言い切れない。ただ、やはりジュネット先生が次のように書いているのを見ると、このタイプのエピグラフとこうした帯文は似た働きをしているようにも思われる。
いまこうして書き写しながら、気づいたことがある。なるほど、その「若い作家」が、こうした高名な作家たちの名前とエピグラフを並べるのは、ご当人がそうでもしなければ「体面にかかわると思い込んで」いるからかもしれない。他方で、それら文学史や思想史に輝く綺羅星のような名前が、自分以外の人びとにも通用すると思えたからでもあるはずだ。
仮に読者の多くが、こうした名前を知らなかったり、馴染みがなかったりする場合、いくら5人、6人とこうした名前を並べてみても、「誰ですかこれは?」という話で終わるかもしれない。そう考えると、「❸引用元による保証」のエピグラフは、書き手と読み手とのあいだに、ある程度、人物や書物への理解が共有されていなければ成立しづらいとも言えそう。
では、そうした保証人、守護聖人として、誰が人気なのか。ジュネット先生は、「エピグラフ原作者としての世界記録保持者」はシェイクスピアだろうと推定している。これについては、藤本なほ子さんと制作中の『エピグラフの本(仮題)』でも、今回調査した範囲ではどうだったか、お示しできれば、などと思ったりしている。
5.かっこいいエピグラフ
ここでちょっとジュネット先生の見立てを離れて寄り道をしよう。Googleで「エピグラフ」という語を検索したことはおありだろうか。
検索フォームに言葉を入力すると、「その言葉を検索する人は、こちらの言葉もあわせて検索しています」という感じで、提案が表示される。これは「Googleサジェスト」と呼ばれる仕組みで、人びとがGoogleで検索している言葉をもとにしている。
「意味」や「例」はいいとして、「かっこいい」という言葉があるのが面白い。たぶん「エピグラフはかっこいい」という意味ではなくて、「なにかいい感じのかっこいいエピグラフはないものか」という検索ではないかと思われる。
もっとも、こうした検索に関する仕組みは、個々の人の検索履歴などによって異なっていたりもするので、みなさんが同じように「エピグラフ」と入力した場合、提案される言葉は違うかもしれない。試しに上記の検索をしたのとは別のパソコンで、「エピグラフ」と入力してみたところ、「かっこいい」「例」「書き方」「数学」といった言葉が並んだ。
実際に「エピグラフ かっこいい」を検索してみると、なにが出てくるかは検索してみてのお楽しみとしておこう。
6.ただそこにあるだけで
さて、ジュネット先生によるエピグラフの機能に戻ろう。これで最後の四つめ。「❹文化のしるし」とはどんな機能か。先生の言葉をご覧いただくのが早い。
「これがエピグラフ効果である」という一文で、思わず吹き出してしまった。急にそんなことを言われましても、と思ったものの、もはやただそこにエピグラフがあるだけで、なんらかの効果が生じるというのは、いや、まったくその通り。
特にここで指摘されているのは、エピグラフの有無に、その著述の時代やジャンルなどがあらわれるという点だった。いま引用した個所と同じ段落中で、「エピグラフはそれだけで文化のしるしであり(略)、知性の合言葉なのだ」とも言われている。エピグラフがそうしたしるし、傾向をあらわすものとして機能していた時代もあったのだろう。
『スイユ』の原書が刊行されたのは1987年のこと。エピグラフの有無が時代やジャンルを示すという指摘は、それ以降の時代についても言えるのかどうかを判断する用意はない。ただ、この指摘に触れて、こんなふうにも思う。
インターネットの普及が始まった1995年頃からかれこれ四半世紀以上が経った。ネット上には、古今の書物や絵画や映画のデジタルデータから、時々刻々と人びとが投稿するSNSのつぶやきや画像や動画まで、厖大なデータがある。そして私たちは、実に気軽にそうしたデータをコピーしてしまえる。
合法か違法かを問わず、技術的には、書物の一節を、あるページの写真を、動画の一部を、画像をまるごと、街角のスナップを、それが自分のつくったものであるか否かを問わず、ともあれコンピュータの記憶装置に保存できるデータであれば、コピーして加工して貼り付けることができる。いまや引用全盛あるいは引用氾濫の時代と言ってもいいかもしれない。引用しているという意識さえ持たずに、そうした操作をしている場合もあるだろう。
仮にこうした見立てが妥当だとして、なにかしらの文章を書く人が、自分の文章の冒頭に誰かの言葉を引用しようと思い立つ機会が以前にもまして増えているとしても不思議はない。それこそ検索によって、引用にぴったりの言葉を探すのも簡単になっている。
少し前に読んだ、あるコンピュータ方面の本で、章ごとにエピグラフが掲げられているのをお見かけした。そのうち1点だけ出典が詳しく記されており、残りは引用とその著者名だけだった。つまり、どの書物からの引用かが記されていなかった。これはひょっとして……とネットで調べてみたところ、いずれも名言を紹介するサイトにまったく同じ文章が載っているのが確認された。
といっても、それがけしからんという話ではない。以前触れたように、ネットの普及以前から『引用句辞典』のようなものもあった。そうした辞典を使えば、出典の本を読んだことがなくても気に入った文句を引用できる。ネットの名言ページでも同じである。
もっとも、自分でエピグラフに選んだ文章が、いったいどの本のどういう文脈から抜き出されたものかを知っているのと知らないのとでは、結果的に似て非なる効果を持ってしまう可能性があることは指摘しておきたい。
というのも、エピグラフは引用者がそれと意図していなかったとしても、引用元の本へとつながる異界への扉でもあるからだ。その扉の先になにがあるのかを知らずに設置すれば、「なんでこんなところにつないだの?」ということにもなりかねない。
最近ではどうか分からないけれど、一時期SNSで、ヴォルテールの言葉として「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」といった引用がしばしば目に入った。そのたび、「それ、ヴォルテールの言葉じゃないよ」という指摘もあり、この頃ではGoogleの検索フォームに「ヴォルテール」と入力すると、「言ってない」とサジェストされたりもするようになっている。
例えば、この言葉をヴォルテールのものとして自分の文章のエピグラフに掲げた場合、これは偽ヴォルテールというか、ヴォルテールの文章という異界にはつながらない、書き割りの扉を設置することになる。
あるいは、誰かの文章を引用元とは反対の意味でエピグラフに掲げてしまう、なんてこともあるかもしれない。それが一概に悪いとは思わないものの、格好をつけようと思って掲げたエピグラフが、かえって格好の悪いことになってしまったりするのは、甚だ具合の悪いことではなかろうか。
なんだか変な話になってきた。異界への扉を設置する場合、できたら扉の先の様子も見ておくといいですね、というお話でした。なにしろ、引用した当人が扉の先の世界を知らないとしても、読者のなかには現地を訪れてみたい、と思って辿る人が出てきたりもするものだから。
7.異界をつなぐエピグラフ
さて、テーマがテーマだけに、眺めたい材料はいくらでもあり、考えたり述べたりすることもまだまだ山ほどある。とはいえ、いったんここでお開きとしよう。おしまいにする前に、もう一言。
今回の冒頭にエピグラフとして掲げたのは、アントワーヌ・コンパニョン『第二の手、または引用の作業』(★9)という本からの引用だった。同書は、引用について縦横無尽に検討した本で、引用に関心がある向きなら一読して損はない。ごく短くではあるが、同書にもエピグラフに触れた一節がある。短いながらもコンパニョン氏は、エピグラフもまた引用の一種であるとみて、これが持ちうる多様な働きをぎゅっと凝縮して述べている。そこをお読みいただくと、エピグラフというものがますます分からなくなるかもしれない。
もちろん訪れてみるかどうかはあなた次第。そんな異界への扉をお示しして、またの機会を窺うことにいたしましょう。ご機嫌よう、さようなら。