小説「テイク・オフ!」 第5話(全5話)完結
この作品は #創作大賞2024
#ファンタジー小説部門 応募作品です。
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8.テイク・オフ!
【HARU】
カーテンを開けると、窓の外は一面の青空だった。快晴。
窓を開けて換気をする。いつものTシャツとジャージに着替えてストレッチをしていると、六時にかけたアラームが鳴り出した。止めると、入れ替わりのタイミングでスマホの着信が鳴る。
「ハル坊、起きてっかーーーーー」
ピョンさんの大声がスピーカーから飛び出した。
「おはようございます。起きてます」
「おーよかった。しっかり目え覚めたかっ」
「大丈夫です。ストレッチしてました」
「OKOK。じゃ、一応これでモーニングコール完了ということで」
「はい、ありがとうございます」
「それじゃ、あとで」
と、ピョンさんは電話を切ろうとして、あ、そうだ、と言い、
「言い忘れてた、初フライト、おめでとう。じゃ、今度こそ、あとでな!」
と言って通話を終えた。
キッチンに行って朝食を作った。お腹が空かないようにたっぷり食べることにする。
切ったバナナを入れたヨーグルトにオートミールとナッツをのせて、はちみつをかける。トーストを二枚、いつものようにキャベツとウインナを炒めて、目玉焼きをそえる。目玉焼きはもちろんしっかり両面焼きで、今日はケチャップをかける。
「おはよう」
父さんが起きてきて、お湯を沸かしはじめる。
「おはよう」
ぼくは一足先にテーブルに移動して、食べはじめる。
すぐにお湯が沸いて、父さんが細口のポットでコーヒーを淹れてくれる。ユニの母さんがプレゼントしてくれたデカフェのコーヒーだ。ぼくはそこに、レンジで温めた牛乳をたくさん入れてカフェオレにする。
食べ終えた食器を流しに運び、歯磨きをして着替える。だぶだぶしたジャージから、ぴったりした自転車用のパンツに履き替えて、薄紫色の航空部のチームTシャツを着る。着替えと大きなスポーツタオルも忘れずにバッグに入れる。
洗面所から出てくると、父さんは母さんの写真の横で棚に寄りかかり、眠そうな顔でコーヒーを飲んでいた。ふたつのカップから立ちのぼるコーヒーの湯気。
「じゃあ、行ってきます」
「気をつけてな、あとで」
ぼくはうなずいて家を出る。
【YUNI】
朝八時に湖のプラットホーム下に集合。
早起きをして、ママと一緒に大量のバインミーサンドを作った。バスケットにつめて保冷剤を入れて、店を戸締りする。
ママの軽自動車で駆けつけると、八時前にほとんどの部員が集合していた。
「おはようございます。由仁の母でございます」
なんてママはよそ行きの声を出して、部長の押山さんにバスケットを手渡している。
ハルはとっくに到着して、パイロットチームと体を温めている。
いつものレモン入りルイボスティーのボトルを渡すと、にっこりして、ありがとう、と受け取った。
勝さんが、ユニちゃん俺には? 俺には? と大声で言う。サンドイッチのテーブルを指さすと、ありがてえ! と大声で言って走り去った。他のメンバーが笑い、ハルも笑った。
タクシーが到着して、誰かが、あっと叫んだ。
見ると、松葉杖をついた佐登子さんが降りてくるところだった。押山さんと勝さんが駆け寄って支える。佐登子さんは笑顔で松葉杖を上げて、みんなに向けてブンブンと振った。
「おーい、ユニちゃーん」
ピョンさんが呼んでいる。
エンジニアチームのチェックが始まる。私はプラットホームに駆け上った。
【HARU】
イヤマフをはずして、ユニに渡した。
ユニは飛行機と並走するボートに乗るので、飛行機が着水したあと、ボートにあがって、着けたいときにすぐ着けられるようにあずかってもらった。
ぼくがはずしたイヤマフは今、ユニの首にかかっている。
イヤマフをはずしてしまうと不安になるかと思ったけど、大丈夫だった。最近自転車に乗る時はずっとはずして過ごしていたから、違和感はなかった。それに、フライト中は小さな音が、きっと大事なヒントになる。
エンジニアチームのチェックが終わって、パイロットチームみんなでプラットホームに上がる。いつの間にかたくさんの人たちが集まっていた。
航空部のメンバーの他に、ユニの母さん、ぼくの父さん、商店会の丸井のおばさん、工務店の佐々木さん。湖を見ると、漁師の玄さんのボートに押山さんとピョンさんとユニが乗りこむところだった。
「大丈夫か、緊張してる?」
勝さんがぼくに尋ねる。勝さんは連日のハードなトレーニングで、頰がさらにシュッとなっている。
「大丈夫です。緊張してます」
ぼくが答えると、勝さんは大笑いした。
「正直でいいぞ、ハル坊」
『ボート班、スタンバイOK』
機内のスピーカーから押山さんの声がした。
「じゃ、行くか」
勝さんにポンと背を叩かれて、ぼくはヘルメットをかぶる。
機体に乗り込み、最終チェックをする。
両翼と、尾翼にメンバーが一人ずつ着く。
「パイロット、スタンバイOKです」
『了解』
さあ、行こう。風を読むのは尾翼の勝さんの役目だ。
全員がそれぞれの持ち場でその時を待って……そして、その時が来る。
「行くぞ……GO!!!!」
勝さんの合図でぼくはペダルを踏み込む。飛行機がプラットホームを走り出す。速度をあげる。走って、走って、──テイク・オフ!
プラットホームからふわりと機体が飛び出した。
わあっという歓声が後ろで聞こえた。
離陸成功。
そのとき、風が、光が、シャワーのように全部の角度から降ってきて、ぼくは、ぼうっとした。
想像と全然違った。
空を飛ぶっていうのは、もっと、一生懸命な、直線的な、熱い、感じなのかと思ってた。
自分の体の重さを感じて怖くなったり、必死に落ちないようにペダルを踏んだり。
全然そんな感じじゃなかった。
ふわりと、ぼくと飛行機は空に浮かんだ。湖の上に。包まれるように。宇宙を泳ぐように。
「順調です」
ぼくはマイクに報告する。
『了解。間も無く2キロ。体はきつくないか?』
スピーカーからピョンさんの声がする。
「問題ないです。足が軽い!」
体はきつくなんかなかった。むしろめちゃくちゃ足が軽くて、どこまでもペダルをこいで行けそうだった。ぼくは笑った。
『了解。ハル坊天才! 最初に飛ばしすぎないように』
「了解です」
うれしくて、ぼくは笑った。
青い。青い。青い。どこまでも青かった。空も湖もぼくも飛行機も全部。
『3km通過。翼のチェックお願いします』
スピーカーからピョンさんの声。
『了解です』
一度ペダルを止め、翼の固定を解除して、可動状態にする。
少しの間、プロペラが止まって、再び回り出す。
「羽ばたき、行きます」
両翼がふわっとゆるんでそれから、ゆっくりと羽ばたいた。
「うわっ」
一瞬滑空する機体の力が抜けて、落ちるかと思った瞬間、翼が羽ばたき、機体は、明らかにぐいっと上昇した。
本当に、大きな鳥のように。
『どうした!?』
ピョンさんの声。
「問題ないです。上昇がすごくて……うれしくなりました!」
ぼくは言う。
プラットホームの歓声が遠く聞こえる。スピーカーから、ピョンさんと押山さんの笑い声が聞こえた。
『それは良かった。ギアの音は? 引っかかりはないか?』
「問題ないです」
『了解。ではベースは滑空で。一度翼を固定。以降は必要があれば上昇を指示します』
「了解」
『では5km超えたらまたコンタクトします』
「了解」
【YUNI】
機内を映しているカメラのモニターをのぞいていた押山さんが、ハハハと笑って私にモニターを見るよう促した。
「あいつ羊羹食ってるぞ! 大物だな」
モニターの画面の中では、ハルがペダルをこぎながら、片手にスティック状の羊羹を持って、美味しそうにもぐもぐしている。
「補給は大切。ハル坊はウィダーインゼリーより羊羹が好きなんだって」
トランシーバーのスイッチを切ったピョンさんも言う。
「おう、俺も好きだぞ羊羹」
ボートを操縦しながら玄さんも話に入ってきた。
みんな笑いながらも真剣な眼差しで飛行機を追っている。
「ハイになってるから疲れを感じないけど、実際は緊張もしてるし体もきついはずだ」
押山さんが言い、ピョンさんがうなずく。
「うん。ここまでで通常飛行のデータは充分。あとは旋回。でも、やばいと思ったらすぐ中止。全員目を離さずにね」
事故が二度と起こらないように。ハルが無事でありますように。
ハル、風をよく見て。周りの色を、水面を見れば、風がわかるよ。
私は首にかけているハルのイヤマフを両手でぎゅっと握った。
【HARU】
『5km通過。ブラボーハル坊! 通常飛行のデータは充分です。パイロットのコンディションは?』
「問題ないです」
『旋回、行けますか』
「旋回、了解」
『切り替えはゆっくり。ペダルをこぎすぎないように』
ピョンさんの指示にしたがって、機体は滑るようにきれいに旋回した。くるりと景色が変わる。湖の上でモーターボートが飛沫を上げてUターンするのが見えた。
「よしっ」
ぼくは思わず、小さくガッツポーズをした。
『キープ。焦らないで』
ピョンさんの声がする。
「了解です。問題ないです」
機体は安定し、またまっすぐ飛び始めた。
わあっと遠く歓声が聞こえた。
「わっ」
思わず声が出た。
『どうした!?』
「鳥です」
『問題ないか?』
「こちら問題ないです。鳥が、一緒に、飛んでて」
機体のすぐ横を、白い鳥が何羽も一緒に飛んでいた。
『ユリカモメだ。飛行に影響はないか?』
「今のところ、大丈夫そうです」
きっと鳥たちの方が空には慣れてるから、飛行機が近づいたりしたらうまく避けるだろう。
鳥と飛んでいるのがうれしくて、ぼくはまた笑った。
「このあとはどこまで飛びますか?」
『データは充分。プラットホームの方へ戻ってください』
「了解」
【YUNI】
ハルはモニタの中で笑っていた。みんな盛り上がっていた。私もうれしくてにこにこしながら顔を上げると、押山さんとピョンさん、それから玄さんは厳しい顔で空をにらんでいた。
風が出始めていた。
「あっちの方で雨が降ってるなあ」
玄さんが顎をしゃくった。
「こっちには来ないだろうけど、風があっちから吹いてる」
どう言う意味だろうと私はピョンさんの顔を見た。
「ガスですよね」
「出るかもしれん」
しばらく空をにらんで玄さんが言った。
ガスというのは霧のことで、湖の上に冷たい風が流れ込むと発生しやすいのだと押山さんが教えてくれた。
思いがけないことで私はぽかんとした。
「それで機体がどうこうっていうのは無いけど、視界は悪くなるよね。あとは、風が心配だなあ」
とピョンさんが言った。
みんな空を見た。確かに薄い霧が、出始めていた。
【HARU】
『パイロット、問題ないですか』
スピーカーからピョンさんの声がした。
「こちら問題ありません」
『霧が出始めました。パイロットの視界は?』
霧?
ぼくは目を凝らした。
「今のところ良好……いや、少し曇ってきました」
そういえば出発した時の青より、少しグレイがかってきているような気がする。
『了解。今のうちに着水。できますか?』
「了解。高度を下げて、着水し、わ、うわあっ」
鳥たちが急に羽を翻して飛び去った。
その一瞬後、突然の突風に機体が持ち上げられて、ザーッと空中を横滑りに流されるのを感じた。
「わ、わ、うわっ」
『ハル坊っ大丈夫か』
押山さんの声がスピーカーから飛び出した。
「大丈夫です。視界がだいぶ良くない。ひっくり返ってはいないみたい」
『大丈夫。横滑りしただけだ。ちゃんとした姿勢で飛べてる。見えてるぞ』
「了解」
『そっちからボートは見えるか? プラットホームは?』
「見えます。ぼんやりしてるけど」
『OK。高度を下げられるか?』
「了解」
これでフライトも終わりか、とぼくは残念に思った。
でもそんなに簡単にはいかなかった。
【YUNI】
「あーちょっと、これはまずい」
押山さんが言った。
「だいぶ流されてきたね」
とピョンさんが言う。
「ハル坊、今だいぶ、東に流されてる。わかるか?」
『位置は正直よくわかってません!』
少し緊張したハルの声がする。
「ある程度湖の深さがあるところに降りないと、降りた時が危ない。軌道を修正できるか?」
『ええと、どっちに』
「そっちから見て、右だ」
「了解。やってみます!」
私はぎゅっとイヤマフを握っていた。祈るように。
『ピョンさん』
スピーカーから再びハルの声。
「どうした」
『けっこう、風に押されて』
「きついか。あおられてる?」
『強くないけど右に行けない。押されて横に滑ってる感じです』
「了解。対策を考える。心配するな。滑空をキープ」
『キープ了解』
【HARU】
鳥たちもいなくなり一人ぼっちになった空で、ぼくはパニックになりそうになっていた。
さっきまで最高だった気分が、急に怖くなっていた。
緊張で少しだけ涙がにじむ。
怖い。怖い怖い怖い怖い怖い。
東にずれてるとピョンさんは言った。
東はどっちだ?
ぼくはドキドキする心臓をなだめながら、太陽の位置を確認した。
太陽が真後ろに来た。あちらが東南だから……
「えっ!?」
視線を前に戻して、ぼくは叫んでしまった。
『どうした!?』
ピョンさんの声がする。
「虹が見えます」
『虹?』
「まるい虹です!」
ぼくと飛行機の前に、まるい虹が現れていた。ボートのモニターには、映っているだろうか?
「ユニ、見える? まるい虹だよ」
『ブロッケン現象だ。太陽を背にして、霧に映ってる。僕も初めて見たなあ』
ピョンさんが説明した。確かこの話を前に聞いたなとぼくは思った。
誰が話してくれたのだったか……
(ブロッケン現象。昔から、山の向こうに大きな神様が立っていて、その後ろに後光が見えるとか、そういう伝説が世界各地にあったりするんだけど)
頭の中で佐登子さんの声がした。
そうだ。ぼくが撮影したインタビュー。
(それって物理的にいうと、太陽を背にして、自分がいて、遠くの山の周りの雲だとか、霧だかに自分の影が大きくうつって、その周りに虹が出るっていう)
(めっちゃエモいっすよね)
そうだ、勝さんも一緒に話していた。
(昔の人が神様だって思ったのもむりないよね。何か神聖なものが見えるって、その時その人にしか見えないものが見えるっていう説もあるんだよね)
(自分とか飛行機の影なんですよね?)
これはぼくの声。
(うん。物理的にはね。でも、世の中にはさ、いつも説明がつかない不思議なことがあるから。出会ってみたいよね)
(神様とか?)
(神様とか、天使とか、自分自身でも。何か、その時にそこでしか出会えない誰かに)
ぼくはまるい虹に目を凝らした。霧に浮かんだまるい虹に、その中に何か見える。
飛行機の影がうつっているはずだけど、丸い虹の中はただひたすらに眩しく光っていた。
【YUNI】
『ユニ、見える? まるい虹だよ』
トランシーバーからハルの声がして、パイロットのヘルメットにつけているカメラで、まるい虹がモニターに映し出された時、私はハッとして息をのんだ。
あれは何?
まるい虹の中に誰かいる。
誰か……女の人だ。
「ブロッケン現象だ。太陽を背にして、霧に映ってる。僕も初めて見たなあ」
ピョンさんが言う。押山さんもうなずいている。
まるい虹……私以外のみんなには、虹だけが見えているみたいだ。
私は目をいっぱいにみひらいた。
全ての色を、見逃さないように。
まるい虹の中で女の人が、にっこり笑って手を振っていた。いろんな色が……両手の指についていて、とてもきれい。
私はそれを伝えたくて、でも、言葉につまった。
自分でも錯覚じゃないかと思ったから。
『ユニ、良かった。見たことないものが見られたね』
ハルは話し続ける。
『まだ誰も見たことがないものを見てみたい。そう言ってたよね』
私はうなずいた。
「ハル坊、こっちでユニちゃんうなずいてるよ。虹、見えてる」
押山さんが代わりに言ってくれた。
ハル、見えるよ。まるい虹だよ。すごく眩しい。
それから、それから……
私が言葉を探していると、ハルがまた言った。
『虹の中がすごく眩しい。飛行機の影が見えるはずなのに、見えない。風に流されてる。進路は右で合ってますか?』
その時、虹の中の女の人はそのカラフルな指でそっと上をさした。
ハッとして私は、トランシーバーに指示をしようとしていたピョンさんの手を抑えてしまった。そして言った。
「ハル、上だよ。もうすぐ風が来る!」
【HARU】
ハル、という声が耳に響いて、ぼくの心臓がドン、と音を立てた。
それはユニの声だったけれど、まぶしい虹を見つめながらその向こうに、ぼくはもうひとつの声を聞いていた。
ハル、と呼ぶ母さんの声を。
二人の声は二重になって、ぼくの頭蓋骨の中に響いた。
『ハル、上だよ。もうすぐ風が来る!』
(ハル、上だよ。もうすぐ風が来る…)
その後すぐに、
『パイロット、上昇!』
という、ピョンさんの指示が聞こえた。
ハッとしてぼくはギアを切り替える。
ペダルを力強く踏み込む。
一瞬の間の後、翼がゆっくりと羽ばたいた。
翼が風をとらえた。飛行機は上昇する。上昇する。上昇する… …
『上昇終わり。翼を固定して滑空へ。できれば右へ進路を変更』
「了解。右へ旋回する」
霧がゆっくりと晴れて、まるい虹もすうっと消えていった。
まるで夢から覚めるみたいに。
霧が晴れて、そして、
その向こうにプラットホームが見えた。
わああ、という声が遠く、プラットホームから聞こえた。
父さんも、ユニの母さんも、佐登子さんも、勝さんも、皆がそこにいた。
『パイロット、進路良好。高度を下げて、着水に入れますか』
ピョンさんから最後の指示が出て、ぼくは機体を確認した。
「問題ありません。高度を下げます」
どんどん水面が近づいてくる。
玄さんのボートのエンジン音が聞こえてくる。
あと10メートル、5メートル、3メートル、1メートル、そして……着水。
ドドドドドという水の衝撃に身を任せていると、やがて全てがゆっくりになり、力強い腕がぼくを抱えて、ボートに上げてくれた。玄さんだった。
「ありがとうございます」
むせながらぼくが言うと、
「よくやったな、坊主」
と玄さんが言い、
「ハル坊、最高」
「ナイスフライト」
押山さんとピョンさんが言った。
それから、
「ハル」
ユニがぼくを呼んだ。
ぼくはうなずいた。
ぼくたちは一緒に空を飛んだ。見たこともないものを見た。
そしてぼくは確かに、母さんの声をきいたんだ。
【YUNI】
その後のことをちょっとだけ。
ハルのテストフライトの結果を受けて、ピョンさん率いるエンジニアチームは更なる飛行機の改良にとりかかった。みんな悲鳴をあげながらも、うれしそうに作業をしている。
勝さんは減量に成功して、最終調整に入った。大会当日まであと少しだけど、きっといい結果が出ると思う。みんなすごく楽しみにしている。
私とハルは、作業を手伝いながら、動画の撮影も続けている。大会が終わったら大急ぎで編集もしなければいけない。やることが多くて私たちはてんやわんやしている。
私は、あの日見た女の人ことを、まだ誰にも話していない。指先に、全身に、色んな色のかけらをまとって、きらきら輝いていたあの人。
今、私は、その人の絵を描いている。出来上がったらハルに見せて、あの日の話をしたいと思う。
──はじめてなのに、なつかしい。
この人のことを、きっとハルは知っているんじゃないかと思うから。
エピローグ:YUNI
空を飛びたい、って思ったことはある?
青い、青い、どんな絵の具でも高精細のディスプレイでも追いつかないくらい青い空。
その中で真っ白に眩しく光って浮かんでいる、いろんな形の雲。
地上を走って、走って、走って。
それからふわりと浮かんで、少しずつ、少しずつ、空へ近づいていく。
これは夢じゃない。
空想じゃない。
風をとらえた翼が何もない空間をすべる。滑空する。
流れる風が歌い出す。光が変わってゆく。
(プリズム)
(スペクトル)
(スペクトラム)
太陽の光が無数の色に分解されて、私たちの周りを飛び回る。
虹の七色なんかじゃなくて、その間の色も、全然違う色も、もっとたくさんの色。
空って何色なんだろう?
混ざってぐるぐる。
空も風も湖も、全部ひとつのスープやジュースみたいになる。
そこで私たちは、まるい虹を見た。まるい虹と、その向こうに特別なものを。
何から話したらいいだろう?
私たちはただ、まだ見たことのないものを見たかった。
寝返りをおぼえた赤ん坊のように、歩き始めた小さな子どものように。
私たちはまだこの世界の中で小さく、弱く、出来ることより出来ないことの方が多い。
欠点もある。泣くこともある。自分は一人だと、全て投げ出したいと思うことも。
誰もがみんな、そうだ。
これは、この体で、自分の力で、走って、走って、私たちが空を飛んだ話。
青い空や白い雲や風や光、それから空でしか見られないまるい虹を見た話。
きっとその向こうに、あなたにしか見られない何かが見えることを信じて。
──テイク・オフ!
(了)
これでこの物語は完結となります。
お読みくださりありがとうございました!
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