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【20年の軌跡-Vol.01】総理大臣になりたかった若者はなぜ若者支援NPOを立ち上げたのか 理事長 工藤啓 9000字インタビュー #SDN20

育て上げネットは来年20周年を迎えます。
これに先駆けて「20年の軌跡」と題して、私たちのこれまでの歩みを紹介する企画をスタート!

ご支援・ご参画いただいた皆様に感謝をお伝えするとともに、もっと私たちのことや若者支援のことを理解するきっかけとなったら嬉しいです。

第1回は、育て上げネット理事長 工藤啓のロングインタビュー。
血のつながらない家族と生活を共にした幼少期、そして運命を変える出会いのあった留学時代から法人設立に至るまでを語ります。ぜひお楽しみください!!

工藤 啓 (くどう けい)
1977年、東京都出身。認定NPO法人育て上げネット理事長。
成城大学中退。Bellevue Community College卒業。内閣府、厚労省、文科省など委員歴任。「無業社会」など著書多数。金沢工業大学客員教授,東洋大学非常勤講師。プライベートでは、長男次男、双子の三男四男の四児の父。


【幼少期〜中高時代】

血のつながらない家族との共同生活

幼少期の工藤

――幼少期のことは覚えていますか?

両親は僕が生まれる前から東京都福生市で塾を運営していました。
あるとき、サリドマイドの影響を受けた女子の親御さんから「塾が始まるまでの間、娘を預かってほしい」と依頼があったそうです。

45年前、障がいを持っている一部の児童は通う学校もなかったのでしょう。母親は “地域全体で教育に携わればいい” という思想の持ち主。「はいはい、どうぞ」と、難なくその女子を受け入れました。

――行き場のない子を受け入れていた?

彼女をきっかけに、知的障がい・非行少年・不登校などの子どもたちが、塾ではない時間に続々と我が家にやってくるようになりました。

ネットがない時代です。
新聞やテレビに取り上げられると、翌日は黒電話がなりやみません。

“うちの子を受け入れてくれる場所” と有名になり、地域から排除された親御さんからの問い合わせは増えるばかり。地方からも依頼が絶えないので「通えないなら皆で一緒に住もう!」ということになったそうです。

――普通はそうならないですよね。

物心ついたときは、何十人もの人たちと共同生活をしてました。
みんな、血のつながらない家族です。

常時30人ほどが出入りしてたかな。
夏のキャンプとかも共同生活しているみんなと行きました。
初めて工藤家だけで旅行したのは23歳のときです。

母親はご飯作ってるところしか見てないです。
何十人分の朝食に、中高生のお弁当何十人分、昼飯、夕飯・・・・・・
毎日その繰り返し。

父親も母親もみんなのものでした。

現在、自身は4人の子を育てる

――みんなのものである両親。寂しさを感じたことは?

父は2019年に他界しましたが、今でも忘れられない言葉があります。

「基本的に(共同生活している)彼らはお客さんでもある。だから優先だ。ただ、もし家に火事が起こったら、俺はお前らを最初に逃がしてしまうかもしれない 」と。

実際火事にはならなかったし、日常は一緒に暮らしている子が優先でした。
でも、僕にはその言葉だけで十分でした。

――自分にだけ向けられた言葉ですね。幼少期の出来事としては、ガンプラの話をよくされていますね。

当時、ガンプラを宝物のように大事に持っていたら、知的障がいの子が全部壊してしまいました。

父親に抗議したら『光るものを衝動的に壊してしまうのを知っていて、彼が目につく場所に置いたお前が悪い』と言われました。
今で言う合理的配慮です。

合理的配慮:障がいのある人から社会のなかにあるバリアを取り除くために何らかの対応を必要しているとの意思が伝えられたときに、負担が重すぎない範囲で対応すること

内閣府・合理的配慮をしっていますか?より抜粋

――40年前に合理的配慮ですか

僕も「はっ、そうか!」とは正直ならなかったです。
納得もいかないし、お小遣いを注ぎ込んだ宝物が壊されたわけで。

いま振り返れば、自分の考えや行動によって彼が彼として持つ特徴によって誰かに怒られる可能性を作ってしまった、と反省もできます。

きれいごとかもしれませんが、一緒に暮らすというのは、“トリセツを読む” とは異なるのだと理解できました。
みんなで生きていくってそういうことなのだと学びました。

――周りに理解されないことも多かったのでは?

嫌だなと思ったエピソードが2つあります。

当時は障がい者施設が一般的でなくて「おばけやしき、気持ち悪い」と言われたり、投石されたことがありました。どうして異物扱いされるのだろうと子ども心にも疑問を感じていました。

また、学校で両親の仕事を発表できなかったこともありました。皆が知ってる塾ではないし、“何屋” かわからなかった。

表現できない僕を先生が助けてくれるのかと思ったら、そのまま後ろの人間に振られてしまったんです。
自分の家の仕事を認識できない歯痒さを突きつけられました。

――なかなか難しい幼少期に聴こえました

外では戸惑うこともありましたが、家の中は楽しかったです。

みんなのおかげで、漫画も音楽もゲームも使いたい放題。
サッカーやりたいと思ったらボール蹴ってくれる大人がいて、毎日がラウンドワンの家でした(笑)

生まれる前からそんな状況なので他との比較ができないけど、寂しい思いをしたことは一度もありません。

自分の中での黒歴史

――中学・高校はどんな感じでしたか?

むしろ中高は僕の中ではけっこう黒歴史。
アイデンティティクライシスを起こしました。

中学二年のとき共同生活のなかに初めて同級生が入ってきたんです。
これまでは年上しかいなかったけど、学校にも家の仕事が介入するようになりました。しかも同じサッカー部。

学校でも部活でも、彼のケアを全部任されました。仕方ないとわかっていても、家の仕事を学校でしなきゃいけないのがすごく嫌だった。初めて家と距離をおきたい、と思いました。

サッカーは切っても切り離せない(写真は米国在学時)

――高校でもずっとですか?

高校1年で引っ越したのがきっかけで、親の仕事に組み込まれないようになります。自分史の中での“共同生活”という第1フェーズが終わります。ここから起業するまでの間、家業とは無関係でした。

――家の外に居場所を求めたりはしなかった?

周りの友人とは話が合いませんでした。
幼い頃から、一緒に住む大人のスタッフの発言をインプットしてきので。

アウトプットする場が学校しかなくて、そうするとコメントもどこか大人びてずれてくるし、話が合わなくなって苦しかった。

――いかに特殊な環境にいたのかということがわかります。

苦しかったのはもう一つ。自分の家は、今で言うところのNPO家庭。
30年前に学校のルールを変えることをインプットされるんです。

「制服はないんだ。あれは標準服だから、ルールにはないはずだ」
「それはルールなの?ルールかどうか確認して」

現代の “学校変えようプロジェクト” の一人版みたいなものです。
そうすると、自分をすごく嫌う先生と好む先生に分かれる。そのバランスをとるのも難しかった。

――当時、なりたいものとかありましたか?

中学時代は総理大臣になりたかった。

自分の状況を含め、何かを“変える”側にまわりたいという気持ちがありました。その象徴が総理大臣だと思いました。

高校生になるとジャーナリストにあこがれました。

家を取材された翌日は、電話がなりやまない。
“ペンは剣より強し”を体感し、“変える”ことへの何かを植え付けられたと思います。ある意味特殊な家庭環境を含めて、この頃からマイノリティ属性だったと思います。

【大学〜留学時代】

米国留学時代

台湾人留学生との出会いが運命を変える

――進路はどのように決めましたか?

中高は休みなくサッカーに励んでいましたが、進路を決めるときは、いつかどうせ社会に出るなら先にスタートを切って働いた方が良いと思い、進学せず就職すると父親に言いました。

すると「どこでもいいから大学には行け。社会を知らなすぎる。バイトもやったことないじゃないか」と。部活もギリギリまでやっていたので、結局、浪人して大学に進学しました。

――大学時代は何をしてました?

主体的でない形で進学したので学びたいことがなく、バイトばかりしてました。コンビニ、配膳などいつも4つほど掛け持ちしてましたね。

僕にとってバイトは “時給上げゲーム” でした。
店長や社長にどうしたら時給が上がるかを聞いて、最短で実行するには・・といつも考えていました。

仕事によって上昇率の差はあったけど、時給を上げる行為そのものが楽しかったです。

――バイト代で夏休みにアメリカへ行ったんですよね

シアトルで出会った同世代の台湾人のことは忘れられません。
ある日、片言の英語やノートへの漢字筆記で雑談をしている中で、
「なぜアメリカで勉強しているのか」と聞きました。

英語を話せるようになりたいとか、アメリカン・ドリームを掴みたいとかかなと思っていたら、予期せぬ答えがかえってきました。

「台湾はいつ中国と戦争が起きても不思議ではない。国際情勢が不安定になった時に、台湾に残っている家族を国外へ逃したい。そのためにアメリカでグリーンカードを得て就職したい」と。

世の中にはそんなことを考えている同世代がいるのか!
国際関係の中で生き残る、家族を守るという壮大なスケールの話を内に抱えて、物事を選択、決定していることに衝撃を受けました。と同時に、彼らと学びたいと強く思い、アメリカの大学に行くことに決めました。

翌日、彼らの大学に案内してもらい、編入のために必要な手続きなどを聞きました。

――「やるべきこと」を発見した、と著書に書いてましたね。

帰国後、父にアメリカに行きたいと話したら「TOEFL500点超えればいいよ」と。当時はTOEFL500点以上で語学学校を飛ばして本学に入れたのです。ギリギリ503点とった僕は、満を持してシアトルにあるベルビュー・カレッジに編入しました。

(写真は現在/大学WEBサイトより引用)

――留学先で感じたことは?

面白い出来事が2つありました。

ひとつめは僕の家庭の話が受け入れられたこと。アメリカでは、ホストファミリーや特別養子縁組が当たり前の選択肢になっています。そもそも多様な人種がいます。マイノリティ属性でもマイナス評価にはなりません。

幼少期に異物扱いされた生い立ちに違和感を覚えなくなりました。
むしろゴリゴリ質問がきて、英語で答えられないという状態でした。

――もうひとつは?

良し悪しはあるけど、できる人のもとに人が集まり、できない人には誰も集まらないということ。馴れ合いとか忖度とか日本的な観点が全くない。

当時、数学のクラスで、誰もわからなかった問題を答えたことがありました。そうしたらスタンディングオベーション。先生に前で説明してくれと言われたけど、英語がわからず黒板に書きました。

――まさに実力主義ですね

そのあとは数学のテストが近づくと、クラスの大半が一緒に勉強してくれと言ってくる。「一番できるやつと一緒に勉強するのが最も効率がいい。君に英語は求めてないから、書けばいい」と言われた(笑)

あ、英語ができなくても自分の得意なものがあれば評価してもらえる国なんだな。中途半端だと苦しいけど、この国って面白い。と思いました。

僕の家庭は皆フェアにという感じでした。けれど、アメリカは自分が輝けば輝いた分だけ、人がついてくる。自己責任の最たるものだと感じました。

――留学後の進路はどんな風に考えていましたか?

当時は金融のど真ん中(成果主義)で働きたいとおぼろげながら思ってました。自分の生まれた世界と真逆の世界に憧れたのか、家の呪縛がどこかであって解かれたかったのかもしれない。

でも、思考としては苦しんでいません。自分の手腕で生きていくことと、皆で生きていくことの比較程度に思いました。

ヨーロッパ視察中に出会ったキーワード「社会投資」

――「皆で生きていく」NPOを選んだのはなぜ?

どの人種であれ周りのアメリカの友人は、就職という進路を選ぶ者が1人もいませんでした。皆、起業して成功しようという話ばかり。

一方で、日本は就職氷河期。
優秀な友人でも、企業から落ちまくっているという現実がありました。

就職の話しかしない日本と、起業ありきのアメリカ。
そんな矢先に「若い世代を労働の観点から支えるビジネスのマーケットが日本にもできるよ」とヨーロッパの友人が教えてくれました。

――新しい市場ができるということですね。

日本では金融ビッグバンの影響で多くの40〜50代が解雇されました。
新たに働く若い世代の参入は制限され、労働市場は不安定になります。

そうするとアウトプレースメント(再就職支援)の市場と、若者支援の市場ができると。その話を父にしたら大いに興味を持ち、一緒にイギリスとドイツを二週間かけて視察することになりました。

――イギリスとドイツのどこを視察したのですか?

現地のハローワークやユースセンター、ホームレスセンターなどを見て回りました。とある“先進国でもっとも運営が困難で重要な若者支援”と言われている巨大な施設に行ったときのこと。

「ここでは、移民や親に捨てられた子たちと暮らしながら、職業訓練をさせて自立させているんだ、すごいでしょう」と壮大なプレゼンを受けました。

「・・・・・・これって、スケールの違いはあれど本質的にやっていることはうちと同じだよね。」と父と顔を見合わせました。

(図)労働政策研究・研修機構/「職業訓練における若者の「希望と妥協」」より抜粋

――家業はすでに最先端だったと…

活動そのものはそうなんですけど続きがあって・・・
プレゼンターの方が話してくれた「社会投資」という考え方は今も大切にしています。

普通の投資は利益が自分に還元されます。
しかし社会投資は、自分の人生やお金や情熱を問題解決に投資して、社会がよくなるというリターンを得ること。いい考え方だなと思いました。

もうひとつ印象的だったのは、社会投資が仕事になっていること。
職員にそこそこ給与が出てて、社員が食べていける状態になっていること。

当時、父の事業の職員が、結婚・出産を機に泣きながら転職していくのをたくさん見てきました。職員すら「いつか辞める仕事」と思ってたので、食っていける仕事だったことは大きなギャップでした。

――ここから起業への道が始まるのですね。

帰りの飛行機で「社会投資っておもしろいねー。起業できるかな」という話をしたら、「やりゃいいじゃん」と言われました。

ヨーロッパの友人の言葉も蘇りました。
「だってヨーロッパの色んな国で先行してるもん。日本だってそうなるよ。新たなマーケットができるってわかってるんだから、大学で勉強してる場合じゃないよ。あとで戻ればいいじゃん、大学は。」と。

8年間は大学に戻る権利があることを確認した僕は、両親と「3年やってだめだったらアメリカに戻る」という約束をしました。
そして、若者支援が“あたりまえに公共に存在している社会を作る”という想いを胸に、起業しました。

【仮団体時代〜法人設立】

全国の若者支援団体をまわりイベントを運営

仮団体時代に調査事業を行っていた当時

――あくまでも起業。お父様の事業に入る選択肢はなかったのですね

父は自分の組織に僕を引き入れることを好みませんでした。
“非営利の事業承継は世襲ではない”という本人なりの信条があり、バイト的に関わるのはいいけど職員にはしたくないと考えていたようです。

父は好き嫌いが激しく自分の思想を大事にしていて、利益があったとしても敵国とは組まないという人でした。ただどこかで、社会全体を何とかしたいとは思っていたのでしょう。

「お前は俺の嫌いな領域とも仲良くやれる。起業するなら、お互い別の領域でやった方がいい」とも言われました。どうしても相容れない思想があるので、おまえいってこい!みたいな感じでしょうか。笑

2001年の1月にボランティア団体を設立しました。父親の手伝いをしつつ、自分の仮団体は持っているという状態が続きました。

――仮団体時代はどんなことはされたのでしょう?

全国の団体をまわって本を作ったり、イベントを企画運営していました。
日本財団の助成金を受けた「プラットフォームプロジェクト」というもので、宿泊型の若者支援団体をまわったりもしています。1年ほどかけて全国32箇所まわり、いろんな人たちの家に泊めてもらうという経験をしました。

――若者支援団体の全国行脚。貴重な経験ですね。

最終的にそれは「全国 ひきこもり・不登校援助団体 レポート」という本として出版されました。

当時、父の事業は大きかったけど、一般的な宿泊型支援は、”家族モデル” と呼ばれる、夫婦2人と常勤1人に生徒10人程度が一番安定する収支形態でした。それを超えても少なくても難しいというのが通説で。
それか、牧場などをしながら子どもを受け入れる ”兼業モデル” が多かった。

純粋に授業料的な感じで若者を受け入れるだけだと、そのモデルの枠から出れないから規模の拡大も難しい。宿泊型をビジネスとしてするのは難しいなと思いました。

――この時期、親子向けのイベントも企画・運営されてます。

イベントではアウトリーチのノウハウを学びました。課題を抱えている人とつながるためには、まずイベントと新聞、押さえるのはご両親、おもにお母さん、最後はお父さん。初めて本人が見学に来たいと言ったときには、ご両親はすでにこっちの味方。

ネットが普及した今と違って、当時はメディアとイベントをぐるぐる回さないと課題を抱えている人たちと会えない。そのような営業の大切さがわかりました。

政府主導の「若者自立・挑戦プラン」に参画

育て上げネットの法人化当時(2005年頃)

――現在の育て上げネットとは毛色が違う印象ですが…

本をつくったりイベントをまわしていたある日、厚労省から新設する支援機関のヒアリングをしたいとお呼びがかかりました。

2003年は日本の若者支援の夜明けの年。
政府全体ではじめて若者の就労支援をするということを大きく掲げ、厚労省や文科省などが「若者自立・挑戦プラン」という具体的な人材対策を取りまとめました。

――行政が若者支援に乗り出したんですね

厚労省のヒアリングは「ヤングジョブスポット(現ジョブカフェ)」という、主にフリーター向けの支援機関のことでした。横浜が旗艦店になることは決まっており、運営団体は父の事業と別の非営利団体とのコンペでした。

最終的に父の事業が受託したので、横浜のヤングジョブスポットの初代室長を僕が任されました。旗艦店だったので色々な所から視察がきて、ありがたいことにその頃に知り合った方々との人脈は今も続いています。

また当時、若い世代が若者支援をするのがウケてメディアに出まくりました。スポットが当事者である ”ヤング” でなく、僕に当たりました。

この後に起業してすぐに規模感が出たのは、社会の機運に乗れたから。
運が良かったんです。

育て上げネットの運営を開始

若者と一緒に作業する工藤

――今は本部が東京・立川ですが、なにか理由があるんですか?

ある日、ヤングジョブスポットに視察にきていた立川市役所の人から、「立川で若者支援をやってみないか」と声をかけてもらいました。

立川には商店街があるので地域の連携もあるし、不動産も紹介できるとのこと。僕は地元が福生なので、同じ多摩エリアだしとても良いお話だなと思いました。

そこで、2004年5月13日にボランティア団体をNPO法人にしました。立川市の事業を受託し、たましんから創業資金の借金もしました。今の事務所もこのときに借りれたのですが、どこの馬の骨とも知れない26歳の若者に場所を貸してくれたのは、立川市役所の方の仲介があったからです。

ここから、育て上げネットの運営が開始されます。

――スタッフには10年選手もいますね。
  経営メンバーをどう集めたのですか?

集めた感覚はまったくないので何て言ったらよいか・・・・・・。
2004年5月、法人設立時にいたメンバーは石山(現・事務局長)と山本(現・経営ボード)の3人だけでした。

法人を支える屋台骨(石山)

――石山さんと山本さんは20年選手なんですね!

石山とは父の紹介で会いました。青梅で塾を運営しており、不登校支援の界隈ではよく知られている人物でした。塾を閉じようとしていた石山に『息子が起業するので番頭をしてほしい』と父が声をかけたそうです。どちらかというとずっと裏方。経理とかバックヤードを担当してもらってます。

創業時にたましんから借り入れたときは、石山が連帯保証人になりました。
借金を躊躇していた僕に、金融機関とパイプを作るのが大事。“借金できる資産”と考えろ、と帝王学みたいなものを説いてくれました。

それからコツコツと与信を積み上げてきたおかげか、コロナ禍で経営不安が起きたときもすぐに融資につながり、石山が言った通り、金融機関との積み重ねが大事であると実感しました。

――山本さんとの出会いは?

支援事業の多くを統括(山本)

老舗のNPOにいた山本とは「ニート」の勉強会で知り合いました。週1ボランティアの関わりから、団体設立とともにこちらに引き込み、がっつり入ってくれるようになりました。それ以来、ずっと現場は山本に見てもらっています。

当時の僕はというと、メディアと執筆に追われるスーパースターでした(苦笑)

――「3年でものにならなかったら大学に戻る」
  良い意味で反故にできそうですね。

実は余裕はありませんでした。
創業から3年後の2007年には、公共事業が後払いだったので、取ればとるほどキャッシュフローがまわらなくなる事態に陥っていました。運営はしていたけど経営(利益の最大化)をしてなかったんです。

今みたいに寄付の体制やクラウドファンディングの認知もありません。
同じ年に “内閣総理大臣 再チャレンジ支援功労者表彰” を受けましたが、足元に火がついている状態でしたね。

父に「経営」のことを聞いたりして危機を乗り越え、改めてお金の管理をちゃんとしつつ、公共事業をとって面を拡げていくと意思決定しました。

――確かに拡大傾向です。他にも理由があるんですか?

2007年辺りから、企業も若者支援に乗りかけてきます。
日本マイクロソフトや新生銀行などと初めての企業協働もしました。

NPOの場合、いろんな事業をしていても、寄付/助成金/公共事業ドリブン、どこで注力するかを決めて経営の基盤をぐっとあげて多角化していくと、業界の中核になるのではないかと思います。

――2007年から経常収入も1億円を超えてますね

採用人事など基幹となるHRを担当(深谷)

時を同じくして企業人が転職してくるようになりました。

今の経営メンバーだと、民間企業からの深谷(現・経営ボード)の存在は大きいです。たまたまボランティアで来てくれて、その流れで職員として来てくれることになりました。

「なんで就業規則がないの?」みたいなことをガンガン指摘してくれて、企業の経営マネジメントが入ってきて。ここからルールをどんどんテコ入れされて「育て上げネット」が組織になっていきます。

******************

今回はここまで!

読んでいただきありがとうございました。
次回は育て上げネットの最初の事業で基幹となる支援プログラム「ジョブトレ」誕生秘話について当時のスタッフと共におつたえします。
6月中旬公開予定です!            


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