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【20年の軌跡-Vol.09】新卒NPOから10年 - 30代・広報マネージャーの生存戦略 #SDN20

育て上げネットの歩みを紹介する企画「20年の軌跡」。
第9回は、育て上げネットの広報部マネージャーである山崎梓。

育て上げネットをご存知の方はもちろん、若者支援やNPOについて理解を深めてみたい方、就活中の方、NPOへのセカンドキャリアを考えている方、将来を模索する若者もぜひご覧ください!

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山崎 梓(やまざき あずさ)
大学時代にNPOに関わるようになり、2014年から育て上げネットに入職、支援事業に関わりながらデータ統計や広報・寄付、情報セキュリティ部門などバックオフィスを担当


社会の閉塞感を一身に浴びて

文芸家庭育ち、募る妬み

――よく書き物のお仕事されていますよね?

中学生くらいからホームページやmixiで日記を書いてたり…書くのは好きですが、いまや黒歴史です(笑)

祖父は高柳重信という俳人で、母親も歌人で批評なんかもしています。
子どものころから、寝る間を惜しんでパソコンに向かう母を見ていたせいか自己表現の手段として刷り込まれてきたのかもしれません。

――そんなルーツがあったのですね

言葉を操るのが得意な人に特別な憧れがあります。文筆家はもちろん、お笑い芸人さんとか、マンガ家さんも。一日中、ラジオ聴いてたりするときもあります。

――言葉に染まってますね

そうですね、でもコンプレックスが大きいです。母だけでなくて、兄もバンドマン、大叔母は小学館の雑誌で子供向けのコラムを書いてる文芸家庭の血筋というか。

僕はまじめな文章しか書けないので。歌も小説も、あと大喜利や漫才、そういう感情を揺れ動かすようなものが全然書けなくて、嫉妬心、劣等感を子どもながらに直感するんです。

――特殊なコンプレックスですね

みんなそういうのが得意で、ずっと良いなぁって思ってました。

両親はおろか兄とも9歳差があるので、そもそも比較対象がおかしいけど、誰にも勝るところがない劣等感がずっとありました。

勉強は苦手ではないけどトップ層ではない。体育や美術も極端にダメということもなく逆に反応しにくいレベル。自分はこういう人間ですって説明するものがなにひとつない中途半端な人間なんですよね。

――中高時代はどんな感じでした?

記憶に残る生徒だった…とは言えないですね。卑下するほどでもないけど、自分で振り返っても、これを頑張ってきたっていうものもないというか。

大事なことはマンガから教わった

――学校を楽しんでた側だと思ってました。

影響を受けたのはむしろマンガですね。母も兄もマンガ好きで、家に何百冊とあり、手塚治虫や赤塚不二夫、水木しげる、古典から始まり、連載中の少年誌、少女コミック、青年向けまで網羅されてました。

自宅にて

今でもジャンプは毎週欠かさず全作品読んでます。

――どんな影響を受けました?

2000年代って “ 社会の閉塞感 ” って言葉をたくさん聞いた時代でした。なりたい仕事の1位が公務員みたいな。やりたいこととか、夢とか希望を語れなくて、むしろそういうのダサいっていう風潮。昭和のノリもまだ残り香のように漂っていて。

でもマンガの世界は真逆で「海賊王に俺はなる」って叫んでるキャラが業界トップ。望む未来に飛び込んでいくキャラにみんな憧れてましたよね。こんな気持ちで生きていたいって思う作品がたくさんありました。

――好きなマンガは何ですか?

僕のいちばんは武井博之先生の『シャーマンキング』です。

マイナーなシーンですが、ザンチンという敵キャラの「できるできないはすべて思いひとつなのに、数字はそのどっちかを決定づける魔物」っていうセリフがあるんですが、心臓撃ち抜かれるくらいうろたえて。それから人生のバイブルです。

受験期だったので、めちゃくちゃ偏差値に囚われて生きてるじゃん俺って。

――いわゆる中二病的なものも…?

そうですね、振り返れば純粋で真面目な子どもだったと思います。

大学も別に行きたかったわけではなく、みんな行くんだから自分もそうするんだっていう思考停止の選択でした。

迷走しながらも前向きに進路選択できたのは2人の先生のおかげです。

進路を決めたふたりの先生

――どんな先生ですか?

ひとりは、代ゼミにいた世界史の佐藤幸夫さん。

中東の現代史の講義をよく覚えています。いまも難題を抱える地域ですが、その原点にあるものを歴史を遡ってイチから教えてくれて、それがすごくおもしろかったんです。

大それた話ですが、失敗や反省を何度も繰り返しながら社会ができて、また綻びが出るけれど再構成する‥‥自分はそういう大局のなかにいるひとりなんだと思って、「何者でもない」と自分本位なこと考えてるのが馬鹿らしくなりました。

心の支えとして

――もうひとりの先生は?

『バカの壁』で有名な養老孟司さんです。

最初に手に取ったのは宮崎駿との対談本で『虫眼とアニ眼』だったと思うんですが、自分が考えたこともない視点で世間を見ていることに衝撃を受けて、本屋で買える本は全部買いそろえました。

それまでの人生の疑問がするすると答え合わせされていく感じがしました。これを機に構造的な物事の捉え方とか、抽象-具体の概念とかが染みついて、ちょっと生きやすくなったんですよね。それで。

――それまでは生きにくかった?

学校でも問題視も表彰もされず、地域コミュニティやクラブみたいな別の居場所があるわけでもない人生って先輩がいないんです。モデルケースになる人が少なくて、視野が狭かったんでしょう。かといってそれをどうにかする術も知らなかった。

佐藤さんや養老さんは、良い先輩になってくれて、自分に足りないものを示してくれたように思えたし、自己理解を進めてくれました。世界は広くて、自分の知ってることなんてほんのわずかだと気づかせてくれました。

――進路選択はその2人から影響を?

佐藤さんが「やりたいことが何もないなら社会学部がいい」とおっしゃっていて、それを疑うことなく信じました。

世界史はほぼ満点。人を信じるってすごいですよね…笑
もともと得意だった国語は現代文はできるけど、古典は無理。英語も筆記はわりと良くできて、でもリスニングは捨てました。

世界史、現代文、筆記英語だけで入れる学校を探して、作戦通りそれで進学しました。

――社会学は合ってました?

最初の概論で「常識を疑う学問」って言われたのがしっくりきました。謎の校則とか、学校独特の前倣えで逸脱が許されない感じとか、なんでだろう、変だなぁってずっと思ってたので、選択は間違っていなかったと思います。

ただ、大学時代はIVUSA(NPO法人国際ボランティア学生協会)というボランティア団体に4年間のほとんどを費やしています。

――先生方のススメが…笑

教育社会学とか、文化人類学とか興味のある講義は楽しみでしっかり出てましたよ(笑)

NPOとの出会い

――なぜボランティア団体に?

視野が狭い、経験が足りないと思っていたので、今までやったことないことをやろうって思っていました。

――IVUSAってどんな団体ですか?

当時、全国2,000人くらいの学生会員がいたNPOで国内外のボランティア活動をしていました。活動テーマが幅広くていろいろなことができるのが特徴ですね。そのスケールが魅力的でした。

新歓のシーズンだけでも相当数の出会いがあり、それだけでインパクトがすごかったです。高校までの学校生活とのギャップがありすぎて、いろいろ人生が塗り替わってしまった感覚を覚えました。

……これは大学デビューというやつですね。はずかしくなってきた。

――だいぶ水が合ったんですね

この団体では素でいられたんですよね。エモーショナルなことが多くて本音がでやすかったのかも。

自分の想いを恥ずかしげもなく語れる同期が多くて、閉塞感みたいなものはありませんでした。気風よく生きるのってこんなに気楽なんだって思ってました。

全体で見れば体育会的な空気も強かったけど、うちの大学の先輩はフレンドリーでそういうのも気張らずにいられましたね。

――印象に残っている活動はありますか?

1年生の終わり、東日本大震災が起きました。IVUSAは災害救援を得意とする団体で、すぐにボランティア活動の手配が進みました。僕も何度も東北にお邪魔しています。

立派な行動と思われるかもしれませんが、内心はひどいものです。
社会の閉塞感に打ちひしがれていた若者の「ついに求められるときがきた!」って利己的なモチベーション。最初の回に参加するまでそういう動機が自分を動かしていたのは事実です。

――ええ、意外です。貢献心が強いのかと。

初めて行ったのは発災1か月後くらい。凄惨な現場をみてからはそういう気持ちは消えて、純粋に今できること、わずかではあるけれど力になれることをやろうと気持ちは切り替わりました。

黄金山神社にて・ivusa.comより引用(2013年)

金曜夜に東京を出て、月曜の朝に帰ってくる。かなり厳しいスケジュールでしたが、それでも自分たちは土日しか現地にいなくて、被災した方々は毎日現地で生活をしている。それを想像するだけで、できるだけ早く東北に行けるようにバイトの日程調整をお願いしたりしてました。

人生初めて「頑張った」経験

――熱心に活動していたんですね。

そうですね。ただ、途中で組織運営の方に興味が出てきて、活動の現場から少しずつ離れていき、後半はそういう内政が中心になっていました。

活動現場は重労働なことも多くて体を動かすのが得意な人や「ご飯作れます!」とか「チェーンソー使えます!」みたいな人が戦力になりやすい。

一兵卒としてならともかく、上級生になり役割期待もあるなかで限られた定員枠を自分が埋めるのはちょっと気が引けました。

その代わり、事務的なことやデータを読む力、研修だったりは多少できるので、よりよい組織づくりに注力していました。

――具体的にはどんなことをしていました?

3年生のとき、地域の大学を管轄するクラブの長を務めていました。
会員が70人程度だったのが130名くらいまで急拡大した年で、本格的な組織化を進めないといけない時期でした。

会議体やマニュアルの整備、会員管理のモニタリング、支部独自の活動創出、退会率を下げるための施策など‥‥やることは無限にあります。

――学生だけで運営したんですか?

IVUSAは大人の事務局がいまして、そのうちのおひとりの方が、平日夜、ほとんど毎晩、打ち合わせや飲み会に付き合ってくれて組織運営を学ばせてもらいました。これが僕の人生の転機。師匠のような人です。

その方はIVUSAとは別に本職を持っておられたので、普通に社会人やりながら相手してくれてたんですよね。いま、自分がやれって言われてもこんな献身絶対できませんよ‥‥。
人生最大に成長を実感したし、頑張ったって人に誇れることができた1年にしてくれたことに恩義しかありません。

――3年生というと就活は?

まったくしていませんでした。
相変わらずライフステージが変わるタイミングが下手。

働くイメージがつかず就活には乗り気になれず。大学院も選択肢にありましたが、本音でないことは自覚があって意思決定を先延ばしにしていました。

最後の活動・同期と一緒に

4年生最後にプロジェクトリーダーとして現場統括をしました。それで心の整理がついたというか、学生生活でできることは全部やったと踏ん切りがついて働こうって気持ちを固まったころには卒業式も終わって‥‥

――では進路が決まらずに卒業?

はい。ぜんぜん焦りもなく。
大学生なんだから4年最後まで学生やってて何が悪いんだよと開き直ってました(笑)

新卒NPOの選択のワケ・周りの反応

――なぜ育て上げネットに応募を?

なにもかも中途半端な人生でも、機会があって支えてくれる人がいれば成長できるし人生が変わるって実体験が動機です。

IVUSAにはいろんな学生がいて、同じようにくすぶっている人もいました。そういう若者を支えるのは本心からやりたいって思えました。

もうひとつは、頑張りすぎてボランティアから離れていってしまう友人や後輩を生んでしまったことでした。

大学、バイト、ボランティアを並行するのは簡単なことじゃないですね。
朝昼は講義、夕方からバイトして、夜中からボランティアの打ち合わせ…なんて日もありました。

それでも僕は仲間や先輩に恵まれて、周りから評価もいただけて報われていたから、365日休みがなくても乗り切れました。でも全員がそうだということはないし、僕みたいな過度な熱意がある人間の方が稀です。

成長させてもらった傍らで、人を傷つけてしまった贖罪的な気持ちもあって、若者に関わる仕事に就くのが育ててもらった側のやることかなと考えていました。

それで「若者支援 NPO」で検索すると、求人情報が育て上げネットしかなくてそのまま応募しました。

――NPOに絞ってたんですね

大学ではずいぶんレールから外れて、でも、その方が性に合う生き方ができたので、いわゆる “ 普通 ” は合わないと思い込んでいました。NPOが肌に合うと感じていたので、自分が知ってることから選んだだけですね。

IVUSAの事務局の人たちの働き方を見てましたし、少なくとも給与はもらえるだろうと思ってました。

――NPOで働くって反対されませんでした?

もともと干渉が少ないので、そういうことはありませんでした。

ただ、結婚を考えたとき、パートナーのご家族には心労をかけたと聞いています。NPOってあやしいですし、娘を嫁がせると考えたら心配するのは当然というか…

――世間的にはボランティアの印象が強いと思います

そうですね、先人たちの話を聞くとクレジットカードの審査落ちたとか聞きますが、そういう不便はいまのところないです。

最近だと、住宅ローンを組むときに書いた資料で、法人種別の項目に「NPO」があって、めちゃくちゃ驚きました。世間がどう思うかはわかりませんが、ビジネス面の認知は変わりつつあると思います。

――どの職種に応募したんですか?

都内の支援事業の支援員に応募しました。

未経験ですからダメ元。IVUSAで「現場が第一」と刷り込まれてきたせいか、現場から入るべきって考えでした。

支援歴ゼロ、未内定卒の書類選考が意外にすんなり通りました。面接が終わったあと、帰り際に「二次面接は部長とやります」と言われて待っていたところ、数日後に電話がきて「採用です」と。

「現場がいいならいいよ」という感じだったと聞いています。
どんどん進んで次の週には出勤(笑)

空白期間は2週間くらいですね。

新卒NPOのキャリア

現場が第一、信じて飛び込む新天地

――最初はどんな仕事をしたんですか?

ユースコーディネーターという肩書で支援スタッフから始まりました。

とはいえ、キャリアも資格もない人間が個別相談するはずなく、しばらくは仕事体験プログラムの同伴が主な仕事でした。体験先まで若者についていって、一緒に作業したりしながら見立てをしていきます。

――引率みたいな?

そう、依頼された作業をうまく進められるか、得意/苦手なこと、体験先の方とのコミュニケーションの取り方、移動中の言動など、多面的なパーソナリティが就活や進路選びのヒントになります。社会経験が少ない方にとっては社会参加をすることで自信につながったりとか。

――実際にやってみてどうでした?

まず何よりも世間知らずでした。言葉では知っていること、例えばひきこもりやニートという状態についてあまりに無知でした。

想像したことのない境遇の方々に触れ続け、強烈なパンチを食らいまくっていました。支援以前にひとりひとりの歩んできた人生を受け止めきれないんですね。

支援記録を読ませてもらっても、うまく飲み込めないというか‥‥
えっ、そんなことあるのっていう個人の事情がドワーっと流れ込んできて、そんな人たちに自分が何ができるか見当もつかなくて。

それに自分よりひとまわり上の年齢の方や、なかには子育て中という方もいらっしゃって。声掛けひとつも、めちゃくちゃ戸惑いました。

――新卒ですものね‥‥

所長や先輩は「無理に話そうとしなくていい、自分がとれる距離で関わりなさい」「事務所を出たらいったん忘れよう」と声をかけてくださったのですが、そこまで自分の操縦がうまくなくて。

技術のない人間が関わって、取り返しのつかないことをしてしまったらどうしようと不安になるほど、距離の取り方がわからなくなり、緊張すると引率中の会話もできなくなって…

しかもそんな精神状況の自分を初めて経験したので、自信喪失のスパイラルに陥ってしまいました。

――思ってた仕事と違った?

今考えると、学生時代までに接してきた若者ってとても元気でした。体調を崩したりはあるけど、学校に通えてたし、卒業もする。ボランティアを辞めたといっても社会参加は続けていました。

育て上げネットに相談にいらっしゃる方は、そもそも頑張れる力を失っている方も多くて段階が違います。段階が違えばかける言葉も変わるし、支え方も変わる。いまだったらわかるけど、当時はそんなこともわからなかった。

最初の挫折、退職を覚悟した

――それでも続けたんですか?

毎日、終業前に振り返りがあるんですが、僕が所見を話すたびに、全体を止めて解釈や説明に時間を割いてくれていました。若者の特性や関わるときのポイントを理解させるために必要なOJTだと思います。でもすごく時間をかけていて足手まとい感がすごいんです。

これ自分がいなければ30分は早く帰れたよな、みたいなことがしょっちゅうあって、利用者だけでなくスタッフにも申し訳なくて。

そんな状態でも明日はやってくるし、利用者は足を運んでくれる。半年ほど経って、自信喪失で事務所に行けなくなりました。いや施設まで行ったけど、通用口から先に進めなくなったんだっけかな……

――誰かに相談とかは?

毎日、帰り道に話を聞いてくれたスタッフもいて、ケアはしてもらっていましたが、負のスパイラルですよね、こういうとき気にかけてもらうほど役立たずが目立ってコンディションが悪くなっていくというか。

このとき教わったことは全部糧になってます。若者支援の基盤になっているし、この経験が無かったら今の広報の仕事も成立していない。みなさんに教えてもらったことは本当に大切なことばかりでした。感謝しかありません。

行けなくなるまでヘルプを出せなかったのが良くなかったです。でもこういう自信がないときって人に時間をとってもらうことすら申し訳なくて‥‥
表面化したところで声をかけてもらえて、やっとそこで話せました。他者に相談するって本当に難しいですね。

ちょっと休みをもらって、そのあとで山本さん(事業オーナー)に話を聞いてもらいました。

正直、会いに行くまで「若者支援のNPOで現場に入れなければクビでは?」と思ってたんです。契約社員でしたし。

もちろんそんな話は無くて、山本さんからは裏方へ異動を提案してもらいました。辞めて仕事がなくなるのは困るし、事業戦略室というバックオフィスに移りました。

――苦しい経験でしたね。

そうですね。自分のなかの常識がすごく邪魔だった時期だと思います。大学で常識を疑えと言われたはずなのに。先入観は無意識なものなので、気を付けないといけないですね。

” 支援者を支援する ” - 裏方に転身

――事業戦略室ではどんな仕事を?

協働事業の管理、利用者管理システムの運用保守とか、広報活動、研修など広範囲をカバーしていました。

いまはプロジェクトサポートオフィス(以下、PSO)という名前に変わりました。支援担当のスタッフが支援業務に専念するためのバックオフィスチームとしてデザインされています。

最初のころは、CRMの整理や、月次報告データ作成が主な仕事で、若年無業者白書も手伝っていました。その傍らでパソコン講座や、小中学生の学習支援、夏休みはお祭りで出店で焼きそばつくったり‥‥なんでもありの時間を過ごしてました。

2年目?気づいたらフルマラソンに出走

――メンタルはどう変化した?

精神的には相当楽になりましたね。

支援から完全に切り離されたわけではないですが、毎日支援する環境ではなくなったので、それが精神衛生上よかったです。上司とも趣味があってよくごはんに連れて行ってもらったり、先輩方もかわいがってくださいました。

――今は広報担当ですが、その経緯は?

前任の広報担当の方がご退職されて、しばらく山本さんが兼務していましたが、人事調整のタイミングで僕の方から広報をやりたいと伝えました。

もともとメディアやSNSは好きですし、ライティングも苦手ではない。この法人のなかで自分の力を発揮しやすいポジションだなと考えていました。

――マネージャーになったのはいつ?

異動して3年目の終わりに声をかけていただいたような。
こういうのが覚えられなくて。

決裁権があるほうがやりやすいし、いつまでも山本さんに兼任させてるのもおかしいので二つ返事で応えたことは記憶しています。

ただ、このときは部下のいない名ばかりマネージャー。
なので脱ひとり広報がミッション。人を増やすためにはどうしたら良いか…って考えてました。

首相官邸でのプレゼンに登壇

――今は広報は何人?

常勤4人、業務委託は5人で合計9人。
ずいぶんと大所帯になってきましたね。ありがたいことです。

器用貧乏は重宝される人材要件

――いろいろ兼務もしていますよね。

うーん‥‥そもそもNPOで専業できるって幻想ではないかと(笑)

リソースは限られているから、できるだけ何でもできたほうがよくてマルチタスクを求められます。完全分業するほうが効率が良くなるほどのスケールにはまだなってないかなと思います。

支援スタッフも資格ホルダーで特化したスキルがあったとしても、それだけで若者と良好な関係が作れるとも言い切れません。スポーツ、音楽、料理とか、なにかしらの別のタレントを活かしてる方も多いです。なので特別なことだと思ってないですね。

――業務量は気にならない?

量も幅も気にならないといえば嘘になりますが、それが苦しいと感じることは無いです。いろいろやらせてもらえるからこそ見える世界もあります。突き詰めるよりも、今のスタイルが性格的に合っているんだなと。

ひとり広報だった頃の広報支出は法人全体の1%くらいだったけど、いまは3-5%くらいには増えてます。他のPSO部門も人員が増えて、財源バランスが変わってきました。

以前に比べたら定時でパソコンを閉じる日はだいぶ増えてます。

――脱ひとり後は何を目標に?

増えたとはいえ、20以上のある事業の広報活動を回すのに多いとは言えなくて、ひとりひとりが自律的に動けるように相変わらず内政ですね。

5年前に入ったスタッフは見事に自律していて、もはや僕を飛び越えてお願いがあるくらい(笑)

現場からの絶大な信頼もあるし、知見の蓄積も進んでセンスあるクリエイティブを作ってくれます。企画やデザインの構想は関わりますが、その先はお任せしています。

最近、方々から「育て上げさん広報いいですよね!」といわれる機会が増えて、イベントやプログラムの定員充足率も高くなってきているし、結果は少しずつついてきていると思います。

――山崎さんはなにをしています?

クラウドファンディングや継続寄付だったり、新しい企画だったり、そういうことに時間を割けるようになりました。

人を頼るのが下手で、全部自分でやったほうが早いって思ってるタイプなので、とりあえず自分の仕事をどんどん作って、強制的にキャパオーバーさせます。そうすると誰かに渡さないと回らなくなるので業務移譲が進みます。

あんまり良くないやり方な気もしますが、自分で一回やっておかないと指示もうまく出せなくて現時点の最適解はこれです。

――キャリア10年の自己評価は?

「だいたいのことをそれなりにできる人」だと思ってます。中途半端な人生なので、最高の中途半端な人材を目指してるかも。キレイに言えばジェネラリスト、昔ながらの言葉なら器用貧乏でしょうか。

そういう器用貧乏だからいまのポジションを築けたと思うし、これはこれで自分らしく生きていられているって納得しています。

――最近は支援には関わっていないんですか?

直接の支援はしませんが、顔が出せるときはできるだけ若者たちを見ています。昼食の時間は支援現場で食べて、様子をうかがったり。

現場を見ないで良い広報はありえません。支援者や若者のリアルは日常にあるので。本当の気持ちや支援ニーズを見逃さないように時間が許す限り近いところで見ていたいと思っています。

これからの若者支援

――広報の視点から業界をどうみています?

勝手な持論ですが、新時代に突入したと考えています。

NPO法の整備前から活動する民間団体の黎明期、育て上げネットみたいなソーシャルビジネスの側面を持つ団体も生まれた平成の時代。コロナ禍を経てまた雰囲気が変わってきたなと。

まず新規参入が著しいです。ユニークなアプローチの団体も増えていますし、中高生支援の団体が対象年齢を延伸するケースも見受けられます。

こども家庭庁が生まれ、厚労・文科省に続く管轄もできました。東京都ではソーシャルファームという柔軟な雇用推進制度ができて注目されています。

なにより若手不足が顕著。高校生の求人倍率も高騰して、若者の取り合いをしている。その一方でスキマバイトとか雇用契約が希薄な市場も伸びています。

育て上げネットもその風潮を受けながら新しい取り組みが生まれてアップデートしています。目まぐるしい業界ですが、それでも「若者支援と言えば育て上げネット」って言ってもらえるように力になりたいです。

――育て上げネットの良いところは?

「取り組みの原点が必ず現場にある」ことだと思います。たった1人だったとしても、それを必要とする若者がいるという誠実な心構えが良いです。

「私はこの支援手法で成果を出してきたからきっとあなたにも合う」
「これは若者に良い影響がありそうだからやってみたい」

そういう考えが悪いとは言いませんが、私にはエゴイスティックに聞こえます。たぶん昔、僕が学校に感じていたようなものです。価値観の押し付けや支援する/される関係に見えるのが肌に合わない。

「K-POPが好き」って若者がいたら一緒に聴いて話題を作る。
「アクセサリーを作りたい」って若者がいたら講師を見つけてくる。

そういう当事者の声に応えるなかで自然と本人の気持ちが前向きになっていくのが誠実なマインドだと思っていて、育て上げネットはその信念が感じられて信じられるなって感じています。

――これからやりたいことは?

いまは生成AIを試しています。近い将来、社会を大きく変えるテクノロジーなのは間違いないので、そのときにあたふたしないようにいまから触っておこうと。

先人の言葉を借りれば、変わらないでいるために変わり続けないと。これからも「だいたいのことをそれなりにできる人」でいるために、新しいものも知らないことも挑戦していたいです。


今回はここまで!
読んでいただきありがとうございました。
次回は8月中旬公開予定です!

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