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成功と幸福

岸見一郎先生の記事に感化されました。

「成功」と「幸福」は違う、と言って通じやすい世の中になりました。

一昔前なら「成功」こそ「幸福」だと信じる人が多かったけど、リーマンショック、東日本大震災、コロナ禍に振り回された今は「成功」が「幸福」とは限らないと考える人が増えたと思います。

物を持たず、関わる人間関係も限定的なミニマルライフでも決して不幸ではありません。昔から「足るを知る」と言います。そうして今ある小さな幸せを有難く感じて、多くを欲しがらない慎ましい姿勢は悪くありません。

それでは…
「成功」を目指すことは悪なのでしょうか?

それについては、私は違うと思います。

働き方の哲学という本で「成功と幸福」を以下のように説いています。

COLUMN 06 「成功と幸福」より一部抜粋
 自分が仕事上で獲得したもの、例えば収入とかそれで買ったモノ、あるいは知識や能力、さらには仕事の成果・業績などに定規を当て、他人との比較で評価することを著しています。
 その結果、自分の相対的な位置が確認できます。自分が優位にいれば喜び、劣位にいれば悔しがります。(中略)
 世に言う「成功と不成功(失敗)」「勝ち組と負け組」とは、まさにこのような定規による相対的な判別を指しているのではないでしょうか?
 他方、幸福とはどういうことでしょう。それを表すのが「器づくり」です。
 幸福は、まず自分の「器(うつわ)」をこしらえるところから始まります。器の素材や形状は、自分が自由に決めて良いものです。それは、作り手の個性・美意識・価値観の表れですから。
 また、こしらえていくうちに、器の大きさは、次第に自分の精神的な懐(ふところ)の深さや見ている世界の大きさといったものを反映するようになるでしょう。そして、その器は自分が行う仕事や仕事から得られるもので満たされていきます。
 ここには作り手の3つの喜びがあります。1つに、器を作る喜び。1つに、器を満たす喜び。1つに、満たしたものを他者に注ぎ分ける喜び。
 幸福はこれら「創る・満たす・分ける」という作業自体にあります。他者との比較相対からまったく自由であり、意識は器に向かっています。

出典:働き方の哲学 P190-191

ここに私はハッキリと疑問を呈したい。

「成功」には競争がつきものなのか?誰も負けない「成功」は無いのか?

私は「成功」を目指すことは必要なことだと思っています。ただし誰かと競り合うような「成功」にはまったく興味がありませんし、さらに私は「成功」できないと確信しています。だけど「成功」を目指すことは大切です。

私の「成功」は世界平和です。世界中何処で生まれても、何処に住んでいても、障害を持っていようがいまいが、肌の色や性別や年齢が何であれ、誰もがイキイキと自分らしく生きて自分らしく死ねるのが世界平和です。

誰かと競り合う必要はなく、むしろ誰とでも連帯して「成功」をともに喜べたら最高。でもそんなの現実厳しい。自分が生きている間に達成するのが不可能なことなど判ってる。それでも「成功」を目指すのは大切なのです。

その「成功」に微力でも貢献していると感じることが私の「幸福」。その「成功」に1ミリでも近づけた社会を次の世代に渡す。それこそ「恩送り」です。頂いた恩を次世代に渡せたら「幸福」なのです。

他者比較で私的な「成功」なんて得ても、俺はきっと死に際で笑えません。だってダサいじゃないすか。

「成功」を目指さないのもダサい。私的領域はミニマルでも良いけど、ちっぽけで活気のない社会を次世代に継承?それは死に際で申し訳なく思うよ。

「成功」なんて目指さなくて良いという人に、私はハッキリ伝えたい。
「成功」を目指すことと「幸福」は「恩送り」で健全に両立できます。

カッコつけすぎ?
むしろダサい?
なんとでもどうぞ。

俺が嫌なのは次の世代に「ダサい、何してたの?」と言わせてしまうこと。
それがダサい。それが恩知らず。

上を向いて前に進もう。

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