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小さいけれど、確実な幸福

 ある日、子どもを自転車に乗せて線路沿いの土手を走っていたら電車が横を通過した。三歳の息子が叫んだ。
「僕たちのお母さんが僕たちに手を振ってくれはった」
 たまたま母親がその電車に乗っていて、電車の窓から私と息子を見つけたのである。
 その頃は仕事も毎日の子どもの保育園の送り迎えも大変だった。そんな時、日常のふとした瞬間に訪れる幸福の瞬間は私の心を癒した。
 韓国では소확행という言葉が流行っているという聞いたことがある。これは「小確幸」という意味で、辞書を見ると、「小さいけれど、確実な幸福」(작지만 확실한 행복)という説明があります。もともと村上春樹がエッセイの中で使った言葉である。
 しかし、このような幸福は「小さい」のだろうか。小さい幸福と対比される「大きな幸福」などない。大きな幸福があると考えられているとすれば、それは幸福ではなく、成功である。
 三木清は、幸福と成功を次のように対比している。
「幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである」(『人生論ノート』)
「成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるか理解し得なくなった」(前掲書)
 成功は量的なものである。難関大学に合格するとか、有名企業に就職するというようなことは、倍率という数字で表すことができる。難関を突破する人の偏差値も数字で表すことができる。また年収によっても表すことができるだろう。
 他方、幸福は性質的なものである。幸福に大も小もないのである。
 また、成功は一般的なものであるのに対して、幸福は各人のものである。「各人においてオリジナルなもの」とも三木はいっている。
 難関大学を目指し、一流企業に入るというようなことは誰もが目指すことであり、その意味で一般的だが、幸福は「各人においてオリジナルなもの」、つまり、どういうことが幸福なのかと一般化することはできず、それぞれの人が自分に固有の幸福を感じるということである。
 大手企業の後継者と目されていた人が、楽器作りの職人になるというようなことは、大方の人の理解を超えているだろう。しかし、自分の人生を生きるのだから、やりたくもないことをして生きる必要はない。
 上司の不正を見逃し、上司の指示に逆らわなかったら出世できたであろうに、そんなことを強いられることを嫌い官僚の仕事を辞めたという人がいたら、その決断を支持する人はいるだろうが、自分も同じことをしようとは思わないだろう。
 成功者には追随者が現れるが、自分の人生を生きるために成功者としての人生を歩むことを拒む人、正義のために出世という成功を捨てる人を真似、追随する人はいないし、成功者のように嫉妬されることもない。
 この人生を真摯に生きようとする人が、これまで多くの人が当然のようにそのために人と競って勉強して職を得、お金を稼ぐというような成功ではなく、幸福を感じて生きたいと思うのは当然だ。
「小確幸」は多幸感でもない。酒を飲んだ時の酩酊でも幸福感を得ることはできるだろうが、幸福はそのような感覚ではない。
 どんな生き方をする時も何を目的としているかが問題である。「小確幸」を感じて生きたいと思う人にとってそれは幸福である。誰もが幸福であることを願っているが、それだけでは幸福であることはできない。「小確幸」を感じて生きたい人は、成功することは「小確幸」には必要ではないと判断したのである。そのような判断ができるためには理性が必要である。
 もう一つ、「小確幸」を見出せるために必要なことは貢献感である。自分が何らかの仕方で他者に役立てていると感じられることである。
 成功を目指す人は、何かを成し遂げることで貢献しようと思っている。「小確幸」を持ちたい人にとって必要なのは、自分の存在、自分が生きていることが他者に貢献していると感じられることである。
 幼い子どもは親からの不断の援助がなければ生きていけない。お腹が空いた時やオムツが汚れて不快な時は泣いたり大きな声を出す。大人はそれを聞いて、子どもが何を求めているかを察し、子どもが必要としているものを与える。
 しかし、子どもはただ与えられるだけの存在ではない。子どもも与えることができる。何をか。幸福である。子どもが何もしなくても、大人はこの子どもの存在によって癒される。子どもは生きているだけで貢献しているのである。
 大人も子どもと同じであると考えていけない理由はない。もちろん、何かをすることで貢献できるが、生きることで貢献できるのである。そのように思えたら、自分に価値があると思えるだろう。
 ところで、仕事で「小確幸」が持てないわけではない。しかし、働くために生きていたり、仕事をすることがただお金を得るための手段になっていれば「小確幸」は持てない。仕事をしている時に、自分がしていることが他者に貢献していると感じられる時、その貢献感は「小確幸」である。

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