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地下鉄を降りて地上へ出る。
陽の落ちかけた歩道が一面茜色に染まっている。
通りを歩く人々の顔をなんとなく眺めて歩きながら、陽菜はあの雪の日の出来事を回想していた。
かじかんで真っ赤になった指先。
頭や肩に薄く積もって溶けた冷ややかな雪の感触。
白い息。夜の闇。

書き上げていた小説は、クボさんとミカミネさんの一件ですっかり頭から抜けてしまい結局お店に置いたまま、あの火事で焼けてしまった。

コラフを最後に出て帰りに立ち寄ったデビさんのコンビニで
一個だけ残っていた大きな豚まんを買えた事に私は大喜びして
家まで待ちきれず、歩きながら食べた。
かじかんだ指先がじんわりと温まるのを感じながら、すごくお腹が空いていたことを思い出した。
大きな豚まんはあっという間に無くなった。

小説を取りに行くという一番大事な事を思い出したのはベッドに横になった後だ。
私は、長い時間をかけて頑張って書き上げた自分の小説の事を忘れてしまうのに、帰り道で買おうと決めていたコンビニの豚まんの事は忘れなかった。
自分自身の食い気に少ししゅんとしたけれど、忘れ物はまた明日コラフへ取りに行けばいいと自分自身を落ち着けた。
中崎さんには食いしん坊な自分のこの話しを冗談混じりに話せばいい。
締め切りのこととか、自分の都合で振り回して中崎さんに迷惑をかけないだろうかという心配も勿論あったけれど、時間的にも肉体的にも疲れていた私はそんな事を考えながらいつのまにか深い眠りについていた。
次の朝が来て、色々な事物が様変わってしまうなんてことは考えもしなかった。



冷たい風が吹き、私は着ていたコートの襟を正す。
どこかで誰かが大きなくしゃみをする音が聴こえてきた。
夏に瑞々しかった道路の欅並木は色合いを落ち着かせ、道なりに真っ直ぐ並んで立っている。
木々たちを眺めていると自分自身の背筋も自然と伸びる気がした。

「あそこの喫茶店無くなったの、惜しいよなぁ」
「本当にねぇ」
横を通り過ぎて行った男女の会話に、はっとした陽菜は咄嗟に後ろを振り返る。
二人は笑顔を交え寄り添いながら交差点向こうのチェーンのカフェ店を指差していた。
あそこが駄目だったから、こっちにしよう。そんな風に。
いかにも生真面目そうな細身の男性と、ベージュのベレー帽を被った落ち着いた雰囲気のコートを着た女性。
本と、珈琲と、灰皿。アイスティーと、音楽と、ナポリタン。
二人の背格好は、陽菜にはおぼろげな既視感があった。
コラフで働いている時、お客として来てくれていた人かもしれない。
記憶を瞬間的に辿ろうとしたが、どんどんと離れていく二入の顔はもうよくは見えない。自分の記憶と照らし合わせる事も間に合わず、陽菜は諦めてまた歩き出した。
欅並木から差し込むやわらかなオレンジの光は、穏やかではあるが少し眩しい。
ぼんやりとしながら道を抜け、住宅街の角を曲がると、クボとミカミネが対峙していたあの十字路が遠く正面に見えた。
流し目に立ち並ぶ家々を眺めていると、道路側まで伸びた雑草の枝を軒先で切っているおじさんと目が合った。

こんにちは。

あ、、。こ、こんにちは。。

小さな挨拶と、小さな会釈をしてすれ違う。
普段なら知らない人とこんな挨拶を交わす事はないが、偶然に目があってしまったことと、眼前にある夕方の落ち着いた風景が自然と陽菜に挨拶を交わすことを促していた。
些細な事だけれど、なにかを克服できた様で、ちょっと気分がいい。
家々の区画を示唆する境界標の様に細い街灯が道路から伸びている。
よく見てみると、その街灯は直線の道路の端々に等間隔で幾つも設置されているようだった。
あの雪の日は道路に積もった純白の光景が暗闇の中では否応なく印象深かった。
しんとした夜に溶け、まるで誰も住んでいない様に深く沈黙した家々。
その道を進むための唯一の手助け程度に点々と足元を照らしていた細い街灯。
雪の中の肌寒さも相まって心許なく閉塞的に思えていた空間は、実際にはちゃんと生活を営む住人もいて、夜道を照らす光も充分にあったのだ。
そうした現実のなか、自分が今歩いているこの道が、あの雪の日と同じ道の上だという事が陽菜には遠くぼやけた幻影の様に思えていた。
振り返ってみると、さっき挨拶を交わしたおじさんは変わらずに伸びた雑草を黙々と切り続けている。
当たり前の事だが、確かにこの道は、同じ道なのだ。
目の前に大きな電柱が見える。陽菜が身を寄せていた電柱だ。
そこを通り過ぎると、もう数メートルでクボとミカミネが向かい合っていた十字路へたどり着く。
ふと、耳馴染みのあるメロディが聴こえて何気なく横へ目をやる。
この音は、、ピアノだ。
音が鳴っているのはすぐ傍の一軒家の二階の窓からだった。
最近外壁のリフォームをしたのだろう。古めかしい外観に塗られたくっきりとした青い塗装が際立って見えた。
「、、懐かしいなあ」
二階窓を見上げた陽菜は思わず小さく一人ごちた。
時折音を外しながら拙く紡がれたその音色は哀愁漂う「夕焼けこやけ」だった。
陽菜の地元では夕方が近づくと、遠くの方から時報と共にこの音楽が聴こえてくる。
丸みのあるとても優しい音色ではあったが、当時の陽菜には家に帰らなければならない時刻をメロディと共に暗に提示される事で、心を乱し急かされたものだった。
なんとなくもう少し友達と遊んでいたい。
だけど、この音楽が鳴り始めたらどうしたって帰らなきゃならない。
弾いているのは、多分幼稚園くらいの子供だろうと陽菜は想像する。
児童ピアノのレッスンの課題なのか、もしくは趣味での演奏なのか。
一音一音をしっかりと指で押し込むような音は崩れたり持ち直したりを繰り返すリズムでいて、なんだか曲を終わらせる事を躊躇しているように何処となく幼さが垣間見えるのだった。
陽菜は頭上から降りてくる懐かしい音色に短く逡巡しながら、故郷の家族の事を少しだけ案じた。


自費出版の経費などを考えています。