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アジアのどこか。深く生い茂る木々を抜けると絵本に出てくる様な木造の小さな店が在る。
霧の中で匂いだけ頼りに導き出した答えの様な、淡く頼りのない印象だった。
店の前に立つと象形文字を横に引き伸ばしたみたいな焼印が、扉の横に押されているのが見えた。
どういうわけか、生い茂る野草達は店の周りだけ一面ペンキを撒いた様にトウモロコシ色だった。焼きたてのパンみたいな匂いが鼻をくすぐる。

ドアを開けると店内は外から見るよりずっと広く、大木を切った上に板を乗せた様なテーブルには幾人かの男女が談笑をしながら着席している。
皆、表情はよく見えないが時折聴こえる浮ついた声の抑揚が、そう想起させた。騒がしいようでいるが耳障りではない。
牛蒡みたいに痩せた店員とおぼしき人物が、両手に大きな皿をもって各テーブルを廻っていた。
卓上には順次真っ白いプレートが置かれ、皿の上には黒い米のようなものの上に縮れた細い麺が乗せられていた。
三色のソースがそれを囲う様に彩を放ち、傍らにコロコロと豆のような、木の実のようなものが添えられている。
一言で形容できないが調理という工程を経たその物体を目の前に、客人とおぼしき人々はまた一段と声を高ぶらせた。
店の奥にもう一つ小部屋がある様で、牛蒡の男は吹き抜けになっているその部屋に戻っていった。

太鼓の様に弾む音が何処からか聞こえる。

男はその店のもっとも神聖な場所で一枚の写真を眺めていた。褐色に焼けた肌に深く刻まれた皺は余りに多くの月日を過ごした樹木の様だった。
色も褪せたそのポラロイド写真の裏面には、滲んだインクで名前が綴られている。写真に写る女性は男にとってかけがえのない存在だった。
調理場の隅に置いてある小さな木製チェストの中に写真を収めると、男は再びもてなしの作業にかかった。

男にとってそれは、飽きれるほどに繰り返される「日々」という名の作業の延長線上の一幕でしかなかった。はめ殺しの窓の外は今日も晴天だ。
夜が来てまた日が昇る。トウモロコシ色の野草を踏みしめて店の前に立つ。入り口の横には焼印が押されている。
顔の見えない人々が、まばらに置かれた店内の席に座り、キツツキの様に繰り返し高い声を抑揚させる。
牛蒡の男は両手に皿をもちながら各自の卓を廻る。モスグリーンの液体の上に、焦げた枝の様なものがそっと添えられている。
いつも客人のテーブルに物が運ばれてから太鼓のような音に気付く。不規則な連弾は遠くから聴こえる音なのかもしれない。
男は今日も写真を見つめる。そして裏面に綴られた名前を郷愁の溢れる顔で見つめ、木製チェストに収め、作業に戻る。
店に置いてある大きな木時計に目をやると、おかしな事に気付く。長針と短針が本来とは逆の方向に時を刻んでいるのだ。
彼は自分の目を疑い木時計の傍によるともう一度その光景を凝視する。間違いなく逆行している。それらは合図でもされた様に男を前に徐々に加速しだした。
風車の様にぐるぐると回り出した針は何周かの後、12時丁度の場所に突然カチッと静止した。と、同時に店内から談笑する声が消える。
男は振り向き店内を見渡すと客人達は皆ナイフとフォークを握った銅像の様になっていた。これは。と、男は近くの客人の顔を覗き込んでぎょっとした。
そこには表情というものがなく一面の闇が張り付いていた。しかし次の瞬間その闇の中から棒状の物がにょきにょきと飛び出してきたのだ。
男はその光景に腰を抜かしてしまい後ろに尻をついて倒れる。闇の中から伸びる数は、一本、二本、三本と徐々に増えていった。
怯えながらも男はそれが木の根だと気付く。見回すといつの間にか店内にいる客人全員が顔から木の根を生やしていた。
店を飛び出そうと入り口に男は向かったが、伸びた木の根は血管の様に既に店内にびっしりと張り巡らされていた。檻だ。
目の前の異様な光景に注視していた男は、店のどこからか延々と聴こえる太鼓の音に気付かなかった。音は次第に大きくなる。
ゴン、ゴン、ゴン。ゴゴン。はめ殺しの窓を見ると裏山から大きな黒い塊がこちらに転がってきていた。それは太鼓の音色ではなかった。
黒い影は男の体を包み込み、重機のモーター音の様なものが一度大きく聴こえて、真っ黒い静寂がすぐにやってきた。


しん、とした世界で鈍い振動を体に感じる。それは一定の間隔で繰り返している。


瞳の先には蒼い天井があった。耳元で携帯電話が目覚ましのバイブを繰り返していた。
どうやら昨夜はいつの間にか、眠ってしまったらしい。陽菜は少しの後悔とさっきまでの世界を想った。
延々と繰り返される振動を止めると、陽菜は体を起こす。夕飯を食べずにいた為文字の通り抜け殻の様である。
時計を見ると11時だった。工事でもしているのか外からは鈍い削岩機の音が響いている。
喉の渇きを潤す為に台所に立とうとした時にインターフォンが鳴った。居留守を使おうとした時、耳馴染みのある声が聴こえる。
「ひなちゃーん」一声あげたかと思うと再び呼び出し音が鳴った。まゆだった。
先日の手紙の事で、何か自分に到らなかった事があったのかと一瞬考えたが、繰り返される音を止める為、陽菜は玄関を開けた。
「おっ、いたいたー」まゆは今日も前髪を結んでいた。満面の笑みを陽菜に向ける。すらりと伸びた細い体には大きすぎる鋭利なロゴのTシャツを着ていた。
「なんなんですか」陽菜は疲労と空腹でいたが、自分でも驚くほどあからさまな態度でまゆを見つめた。
「このまえさ、手紙、ありがと。よかったらうちへ来ない?」
「えっ、」同様する陽菜を置いてけぼりに、まゆは指先で髪の毛をくるくると巻きながら話している。
「うちさ、料理つくるんだけどいつもどかーって作っちゃって余るんだよね。だから食べてよ」
「はぁ。」
「ねっ、じゃあ決まり。用意してるから後で来てね」
陽菜の返事を聴く事もなくまゆはそう言い放っていなくなる。ドアストッパーの様に体を押し込んでいたまゆが消えて勢いよくドアが閉まった。
嵐のような女。。陽菜はもう一度その印象を噛み締めた。正直な所あまり好ましいタイプの女性ではないし、食事も遠慮したかった。
あの人がどんな私生活をしているのかは分からないが陽菜は襟足だけを部分染めするような人が何処か隅に置けない。オーバーサイズなうるさいシャツもまゆが去った後で頭に染み付いている事に気付く。いつのまにか相手の世界に引きずり込まれる様な感覚が不愉快だった。
しかし陽菜は人の気持ちを無下にすることがとかく苦であり、断れない性格が体を洗面台に向かわせていた。相反する行動は思考と体が合致していない為にゾンビの様だった。夢の中で粉々になったシワのおじさんの店。あれはいったいなんだったのか。気の抜けたコーラの様に大事な物が抜け落ちた夢をおぼろげに回想した。
物語を書き進めるようになり今までずっと繰り返してきた日々に灯りが燈った。惰性の日々に変化が加わる。まゆ。あの女性もわたしの軌跡に縁(えん)を持った。不快な夢。小峰まゆ。陽菜の頭に広がる単語の電飾にまた一つ新しい灯りが燈った。
髪の毛が跳ねていないかもう一度鏡を見る。そこに映るのは私であって私じゃない。昨日のわたしはもう過去だし人は日々、更新されている。いつか部屋で見たクボさんのグーサインを思い出した。

身支度を済ませた陽菜は靴下と靴が間違ったことをしていないか確認するといそいそと部屋を出た。


自費出版の経費などを考えています。