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スケッチ⑯


午前9時25分。

白杖はくじょうを前に出し、新幹線から駅のホームに降り立った俺は、土地の風土を確認するようにその場で一つ深呼吸をした。
朝の東京。まだ少し冷えた空気が体の中に満ちていく。
仙台からおよそ二時間。
自分にとって久々となる遠出は、思いのほか体にくるものがあった。
俺は電車やバスなどの乗り物に長時間腰掛けているのが苦手だ。
仙台で生活をしていて地下鉄やタクシーに乗る事はあっても乗車時間は数分程度。
カメラマンをしていた頃は時折県内を電車移動することはあったが、それもだいぶ前の話しだし、こうして新幹線に乗車したのは学生の時以来だった。

あの頃は車窓から流れる景色の変化を大袈裟に騒いだり、くだらない事を延々と話すクラスメートと共に、これから向かう旅先への期待を膨らませていた。
思い出作りに持参したインスタントカメラは、行きの列車内でふざけた友人を悪戯に撮影してフィルムを使いきってしまった事も懐かしい。
それらは全て、特別な時間の中での出来事で、何もかもがひどく新鮮だった。
脳裏に蘇る情景は、煌びやかな笑顔と青々とした空気を纏っている。
郷愁を噛み締めながら、俺は今、数十年ぶりに知らない土地へ降り立っている。
色々な意味で、あの頃とは変わってしまった自分の体で。


改札を抜け、駅構内の点字ブロックの上をしばらく歩いていると、突然妙な感覚に襲われた。
さっきまで続いていた足元のブロックが姿を消し、拍子抜けに行き止まりになってしまった。
白杖を前に出しても、無機質な固い感触しか返ってこない。
これは、、
急にやってきた変化に少し慌てはしたが、しかし、俺はすぐに状況を理解した。
自分以外の周りを行き過ぎる人々は、誰も歩みを止めてはいない。
加えて、ここには袋小路のような閉鎖的な圧迫感も感じられない。
似た状況は仙台で経験したこともあったが、しばらくぶりなので一瞬混乱してしまった。
行き交う人の気配に留意してから体を斜めにスライドさせ、数メートル進んでから白杖を探る様に振りまわすと、すぐにブロックの感覚が戻ってきた。
離れてしまった手綱を引き寄せる様に体を戻すと、再び俺は点字上を歩きだす。
歩みだしてから自嘲するように俺は息をついた。
そう、落ちついて考えれば何も慌てる必要などなかった。
仙台駅より遥かに巨大な東京駅の構内には、様々な音が溢れかえっている。
列車の発車や到着を知らせる電子ピアノのメロディや、機械的な男女のアナウンス。繰り返しなにかしらの注意喚起をする駅員の尖った声。
密度のある空間でそうした音達は膨れ上がって反響しあい、人々の足音や話し声を不規則に重ねながら俺の耳へ向け流れてくる。

察するに、さっき俺が足を止めてしまった場所は通路沿いに併設された売店かなにかの前だ。
壁だと思っていたのは店に並ぶ旅行客のキャリーバッグか、それに近しい何かだ。
普段ならすぐに気付ける状況を把握できなかったのは、聴き馴染みの無い重なった音の形を捉える事ができていなかったからだろう。

バルトークのミクロコスモス。

ピアノ音楽の小宇宙。量子世界への箱舟。
東京駅に満ちている形容し難い音の流動は、俺にこの曲を連想させた。
攻撃的な音ではないので嫌悪感こそ無いが、迂闊に身を任せて油断すると、いつの間にか何処とも知れぬ場所へ連れて行かれてしまう。
まるで霞の様な潜めた危うさが感じられるのだ。
俺は考える。
大都会東京。この街で生きている俺と同じような境遇の人達は一体どうやって過ごしているのだろう。
これ程に巨大な駅となれば時間帯により音の数は勿論、行き交う人の数ももっと増えるはずだ。
濁流の様な音の渦の中に身を投じるという事を想像するだけで、なんだか歩くのが億劫になってしまう。
住めば都なんてことはよく聴くが、こうした環境に身を置く事だけでそうした事にも慣れてしまうものなのだろうか。

トウキョウ・ミクロコスモス。。

白杖を握る手に少しだけ力を込めると俺は駅の出口を目指した。



元々のスケジュールでは、俺と江美は共だって東京を訪れる予定だった。
しかし、今朝になって眩暈を訴え、江美はベッドから起き上がれないでいた。
心配で体に触れたとき、普段よりも江美の体温が高い様な気がした。聴けばここしばらく体調が優れなったらしい。
当日までバレないように溌剌な声を装っていたという告白は、江美に気を使わせてしまった事を俺に悔やませた。
既に新幹線のチケットはとってしまっていたし、東堂さんとの約束もあった俺は、迫る時刻に引かれる様に仕方なく一人で東京へ向かう事となった。
江美との一連の経緯があった為に、朝から何も口にできず朝食はコンビニか駅の売店で済ませる事にした俺は着替えて手短に支度を終わらせた。
前日に用心して早々と準備していた荷物は功を奏した。
すり足で玄関先まで送ってくれた江美は、辛い状態にも関わらず、俺に向かって心配する言葉を幾度も投げかけていた。
自宅から駅までは1人で何度もタクシ―や徒歩で往復した経験があったし、朝の仙台駅は人もまばらだ。
東堂さんとは会場がある新宿に現地集合という事で話をしていたが、大きな駅さえ抜けてしまえば、あとはタクシ―やバスで如何様にもなるだろう。
「だから、大丈夫だって。」
少し大袈裟に心配する江美を笑って諭してから、俺は仙台の家を出たのだった。



「もしもし、北多川さん。 おはようございます。」
東堂さんの声を聴いて、俺は少し安心する。
東京への到着報告と共に、江美が来れなくなった事を伝えると東堂さんはひどく驚いた声をあげた。
「、、大丈夫でしたか。そうと知っていれば駅まで迎えに行ったのですが、、すみません。実はこれから大切な予定があって、すぐにはそちらに向かえないんです。」
江美さんが一緒だとばかり思っていましたから、と東堂さんは続ける。
「本当に申し訳ないのですが、予定通り現地集合という形でもよろしいですか。。」
身動きがとれない自分に苛立っている様に東堂さんは深い息をついた。
「いえ、気になさらないでください。江美の事はこちらの事情ですし、僕も東堂さんに余計な心配かけたくなくて黙っていた事ですから。」
落ちついて答えを返した俺に東堂さんは重ねて謝罪をしてから電話を切った。
受話器を置き、電話ボックスから出た俺は、言葉とは裏腹に落ちついている余裕など微塵もなかった。
駅の外のベンチでウエストバックを確認していた俺は、携帯電話を家に忘れて来た事をそこで気付いた。
公衆電話でほとんど博打に近い形で打ち込んだ電話番号は、奇跡的に東堂さんと繋がり、ひとまずは連絡ができたのだが、いずれにしても見知らぬ土地での不安が増した事には変わりなかった。
「大丈夫ですか」
電話ボックスを出た俺の表情の変化を見ていたのだろう。案ずる様な声だった。
駅の案内所で無理を言ってタクシ―を手配してもらった俺は、要介護者の様な扱いを受ける形で指示を受けた若い男性駅員に付き添われながら電話ボックスへ入っていた。
「あぁ、はい、、大丈夫です。お忙しいのにすみません。」
取り繕うように明るく振舞おうとしたが、言葉は力なくしぼんだままだった。
「いえいえ、、あっ、あちらにお呼びしたタクシーが到着されたようなので、そばまでお送りしますよ。」
「ありがとうございます。本当にすみません。」
駅員に寄り添ってもらいながらタクシ―に乗車した俺は彼の方へ一瞥した後で東京駅を後にした。

自費出版の経費などを考えています。