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サッカーはやめてしまったけれど その14【19歳の挫折②】

年越して1992年を迎えた頃だったと思う。山口さんから「ちょっと相談したいことがあるから」と飯に誘われ浜松に二人で出かけた。

「来年からJリーグっていうサッカーのプロリーグが出来るって話でさ…」

当時はJFLという企業の抱えた実業団チームの集まるリーグ戦が最高峰で、日産やYAMAHA発動機という会社員の部員の中に、*木村和司のようなプロ契約選手がいる時代だった。

「そのプロリーグにYAMAHAも選手全員がプロ契約するって事みたいなんだけど…」

普段は明るく愉快なのに、来た時から元気のなかった彼は喉を詰まらせながらポツリポツリと話す。

「お前の年齢でそのくらいのプレーのヤツは要らないって言われたんだ。もっと若いプレーヤーが必要だって、要は戦力外通知って…」

彼は涙目だった。

僕は何も言ってやれなかった。そして僕は二つの意味でショックを受けた。一つは山口さんくらいのプレーヤーがプロに、国内のプロ選手にすらなれないという事。そしてもう一つはそれが21歳という年齢で突きつけられた事だ。

あの清商のキラ星の選手たちとの差が果てしないことくらい分かっていた。でも、大学入って体育会系に入って目一杯練習して、アイツらに追いつけ追い越せって頑張って、実業団入ってプロになって、*奥寺やKazuみたいに海外へ出て…。そんなことを夢想していた自分が道化師のようにマヌケて思えた。大学を卒業したら24歳。プロになるってことをもう夢見てはいけない年齢をとうに越してしまう。世間知らずの何にも知らない田舎者めが。

こうして僕は挫折した。

山口さんは「もうサッカーを辞めようかと思う」と話していた。それを目の当たりにした僕の唯一の救いは、指導者(教師)への道という保険しかなかった。そのための大学進学でもある。けれど、あの時の自分に伝えたいことがある。まだ、諦めてはいけない。道は他にもある、と。
…もちろんその声はもう届かないほど昔。

さて、その道とは何か?それはこれより数年後に知ることになるが、語るのはもう少し後にしようと思う。つづく

*木村和司…日産自動車に所属していた日本人初の国内リーグプロ契約選手。当時は海外リーグのプロ選手になる道しかなかった。

*奥寺康彦…古河電工から移籍し、ドイツブンデスリーガで最初に成功した日本人プレーヤー。のちに風間八宏らが続く。

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