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なぜ安楽死はダメで、出生前診断はOKなの?

謎ですよね。

先に言っておきますが、こんな壮大かつ難解なタイトルに対して明確な回答を導き出せるほどボクの知は深くありませんし、正義感でもなんでもありません。ただ、この問いかけには「我々はどのような根拠によって「人間」を規定しているのか?」という機能的意味の一端を考える材料にはなると思います。「人間が「人間」を規定する」仕組みとは

◆法とタテマエ -出生前診断に基づく堕胎-
日本では堕胎(人口妊娠中絶)は基本的には認められていませんが、①妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの。②暴行若しくは脅迫によって又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの。

上記①か②に該当する場合であれば法的に認められます。これは納得できます(これもアカン!とか警察や検察が言うなら堂々と抗議しましょう)。しかし実際には、出生前診断という医科学の進化によって99%の確率で産まれて来る胎児の「障碍」の有無が判別され、その結果「母体保護法」(上記①)に該当するものとして堕胎が実施されているのが現状です(僕達はしませんでした)。もちろん対立意見もありますし、難しい問題なのはわかります。だって、例えばダウン症の子どもを授かった親の目線はわからないし、わかろうとすればすればするほど笑顔になるだけのような気がします(ちなみに「母体保護法」の前身は「優生保護法」です)。

ここで重要なのは、「堕胎可能な期間」(期間て 笑)が「妊娠 22 週未満」と決められているという事実です。

違法ではあるけども、妊娠22週間未満であれば堕胎を可能とする思考・実践には、医学的な根拠とは別に社会・文化的側面から見れば「妊娠22週未満であれば「人間」とはいえない」とも解釈できてしまう。22週ということは5~6ヶ月、性別、顔立ちまで分かってくる時期です。みなさんそれぞれ思うところがあるでしょう?でも「法」として規定されている訳です。

とにかく、法に基づけば(それがタテマエであっても)「22週未満であれば生命は「生命」ではなく、人間が「人間」ではなく、それがタテマエ法に基づいて堕胎と言う名の「死」を「人間」に与えることが可能」という訳です(ここで拙文に欠落しているのがカップルや彼らを取り巻く人々の心情であることは強く補足しておきます)。ここにひとつ人為的に創られた法をベースとした「人間」という社会的なカテゴリーが存在するのは明らかです。

◆じゃ、安楽死の場合はどうでしょうか。

※上記記事は、簡単に納得するのではなく、批評的な思考を促進させてくれるという意味で良記事です(本当はすべての言説がこうあるべきなのですが)。この花房記者は常にフラットな視点を保とうと試みようとトライしているのが良く分かります。個人的な悲しみを押し殺してさえ。

懸念するのは、被害女性の病状なら「死にたくなって当然」という社会の一部の反応だ。生産性や効率を常に求め、他人に多くを依存して生きる状態を「人としての尊厳が失われた」と見る価値観が広がっているように思う。

安藤泰至/鳥取大准教授(本文より引用)

仮に耐え難い痛みを伴う場合や、この場所では(延命を伴う)医療措置を取ることは絶対的に不可能という状況であれば、戦争映画に見られるように「ドーーーーック(衛生兵)!!!」と叫んで、致命的な銃弾を受けた戦友に対してモルヒネを投与して楽にさせる。あとは聖書の言葉を述べる。それ以外に此処では方法がない・・・というのであれば他者による実践として理解することも可能ですし、僕もそれを望むかもしれません。

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しかしそういった特殊事例とは別に戦地でもない現代社会において、

「死んだほうが楽」「死んだほうがマシ」

というのは、思考よりも感情が先走っている感が否めないようにも感じます。なぜなら「死」の向こう側にあるものについて生者は無知であるからです。「死」は必然であり必ずやってくる。しかしその内実について我々は何も知らない。誰も教えてくれない。何も知らないまま「死」を望むという姿勢・態度が思考であるはずがない。思考を放棄した絶望?ならば絶望から出発すればよい。

そう、「死んだほうが楽」というのは、ある意味では完璧なファンタジーです。

患者は、自分自身が描いてきた人生設計、イメージとは異なる人生を歩む現状の自己像に加えて、「意に叶わぬこんな自己」に対して、お世話(?)配慮(?)、苦労(?)してくれている親族を含む他者に対して申し訳ないという気持ちに支配されているのではないか、と思うわけです。ここで重要なのは、安藤泰至先生が記事本文で仰っているように、難病であるから「人(人間)としての尊厳が」なくなったと見る感情と、そのような感情を促す社会的な集合的まなざしでしょう。それは現代社会に蔓延る社会「有用性」「有益性」「生産性」あるいは「勝ち組/負け組み」とも換言できます。

欧米のいくつかの国では安楽死を近代以降進展する個人主義の帰結として容認していますが、別に彼らを真似する必要などないと思います。現状の「死んだほうがマシ」という感情は、確かに日本でも近代以降に進展・拡大し続ける個人主義と無縁ではない(それ自体を悪とはボクは全く思っおらず、ある意味では集団からの個人の解放とさえ考えています)。しかし実際は、当事者としては、ムラ的な共同体や縁とは別に自己を世話(?)してくれる人々に対して、

他者に迷惑をかけたくない、依存してはいけない、社会における「ムダ」≒「非生産的」な存在になってはいけないという、他者を意識した見方が根底に存在しているように思えてなりません。そこに本当の自己はどの程度あるのか?と聞きたい。

◆そもそも「人間」とは曖昧なもの・・・。
出生前診断と人工妊娠中絶に見たように「人間」とは、社会・文化的に恣意的に創られ、規定された曖昧なものです。思いませんか?

22週間未満ってなんやねん?。誰が決めたねん?

と。

あるいはそもそもワタシってなんやねんと。サルとヒトの違いぐらい、いやそれ以上に「人間」概念は「縄文人は日本人」ぐらい曖昧です。だって人間が勝手に規定したものだから。ヴァンパイアに噛まれた人間が「お前どっちやねん?」であるように、人間かそうでないかなど社会・文化的に規定されているからこそ未規定な訳です。優しいフランケンシュタインは「人間」か「怪物」か?さぁ、どっち?これ、頭から煙出るぐらい真面目に考えたらいいですよ。明日仕事休んでもいいから。


「人間」と「人間でないもの」を明確に区別することは難しい。それでもなお、社会や文化は我々人間を軽々しく規定し続けるでしょう。ときには「女」「男」「労働者」「組織人」「オトナ」・・・・etc...

そんなときには、

「我々は "人間みたいなもの"  でーーーーす!」「イイトモー!」

と自己を主体的に規定すればよい。それを踏まえれば、アナタもワタシもそもそも社会的に勝手に定義付けられた、しかしワタシはそんなことを知らない未規定な「人間」なので、なぜ誰も知らない未知な「死」に向かわなければいけないのか、そこに何の意味があるのか?

という問いだけが残ります。

・・・・・・。

※最後にひとつだけ言うとすれば、

科学への「信頼」が、宗教への「信仰」に勝ってしまった現代社会。

今こそ、宗教者の行動が問われている気がします。で、最後にこの曲をお送りします。​

じゃ、また。パーフェクトは、ない。

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