山下宗

田舎でのほほんと生きてますよ〜

山下宗

田舎でのほほんと生きてますよ〜

マガジン

  • 9.11のこと

    2001年僕はNYにいた。 そんな僕の健忘録です。

最近の記事

喜多郎さんとの話。

僕の父は音楽を聞く人ではなかった。シューゲイザーになってしまった僕はいったいどこの遺伝をもらったのか不思議だ。 でも、父と車に乗るといつもかかっていた音楽があった。 喜多郎「古事記」 車は何回か変わった思い出があるけどいつもBGMは「古事記」 あまり良い親子関係じゃなかったけどいつも車に乗って流れる喜多郎さんの「古事記」は僕の記憶に強烈に入っているんだ。 深い自然の中で聞いてみてほしい。 シンセサイザーと自然が融合する具合を実体験できると思う。 そんな僕は29歳の時に死に、父

    • 9.11続き11

      テロがあった。とんでもない悲劇だったことは間違えようがない。 そんな中でも日常があった。 そんな中でも日常を送れる人間の方が強かった。 でもあの事件は悲しみの戦争へと突っ走ってしまった。戦争なんて悲しみしかないと思うけど。 あれから20年経って僕は健忘録の為に手記を書いてみることにした。 未だにに鮮明に覚えているんだ。 もちろん20年も経っているから記憶の齟齬があると思う。 でも色々なシーンは鮮明に思い出せる。 旅行者だった。そこに暮らしている人とはまた違った経験だったと思う

      • 9.11の続き10

        相変わらず航空会社に電話は通じない。 ヒデさんがいたから毎日の料理が信じられないくらい充実していた。 ヨシと二人だった頃は2ドルで買った噛むたびにジャリッと音がする塩しかないのかというミートボールスパゲティとかを食べていた。 朝と夜はキムおばちゃんの担当?だったからパンケーキ祭。夜はハンバーガーとガロンで出てくるワインだったけど。 ヨシたちが学校から帰ってきた。 「食べなさい!」 キムおばちゃんの宴が今日も始まる。 非常時の日常。 今日の夜も僕とキム2はいつも通りカウチに座っ

        • 9.11の続き9

          2001年9.13 「食べなさい!」 またキムおばちゃんの激しいノックで1日が始まる。いつものパンケーキ。 学校が再開されヨシたちは学校へと向かった。 僕たちは旅行者にはやることがない。 少しづつ社会が平常に戻っている空気を感じ始めたけど、相変わらず道路を走る車には星条旗が掲げられていて、道という道にはフル装備であろう米兵が立っていた。 航空会社に連絡しても一切連絡がつかない状況。いつ帰れるんだろうかとみんな不安だった。 「海にでも行ってみますか?癒されたいし。」 僕たち旅行

        喜多郎さんとの話。

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        • 9.11のこと
          10本

        記事

          9.11続き8

          その日の夜もキム2とカウチでタバコをふかしていた。 ワールドトレードセンター崩壊の時、すぐそばにいた話。 100メートル5秒で走った自信があるとキム2は笑いながら言っていた。 「nogare.nogareシチュエーションだよ」 「日本語めっちゃ上手くなってるじゃん!」 2人で大笑いをした。 正直、そこでキム2がどんな経験をしたかわからない。でも彼は笑顔で、あんな悲劇だったのに、それをコメディーみたいに話してくれた。 いつも笑顔でひょうひょうとしているキム2の強さだとも思った。

          9.11続き8

          9.11の続7

          僕たちは睨み合った。そんな時にヨシの電話が鳴った。9.10までNYにいた僕らの友達の女の子からだった。 「全然電話が繋がらなくて心配していたんだ!二人とも生きていたんだ!良かった!」 こんなタイミングで電話が来るなんて作り話みたいだけれども本当の話なんだ。 それで僕たちはお互いに馬鹿だったねと仲直りができた。 イツカ、未だに感謝してるんだ。 ヨシのことについて話していなかったけど、とてもセンシティブな人だ。でも僕たちはとてもうまがあった。彼はとても優しい人で、常に人に囲まれる

          9.11の続7

          9.11続き6

          2001年9.13 僕とヨシはほとんど会話をしなくなった。 ヒデさんがキムおばちゃんのために料理でお礼がしたいと言った。ヨシとヒデさんと3人で買い物へ。 今思えば今思えば僕とヨシの険悪感を察して気を遣ってくれたんだと思う。 「これは刺身でいけるなぁ」 どうやって判断しているのが一切わからなかったけど安心感は半端なかった。 そう思い返してみればやっぱり物流は止まっていなかった。 空の空軍、一ブロックごとに立つ米兵が醸し出す妙な空気感が強かったんだと思う。まるで今のロックダウンの

          9.11続き5

          2001年9.12 酷い二日酔いだった。非常時に酒を飲んでなんて危機管理が足りていないという批判を受けそうだが、米国民でもない旅行者の僕らには酒を飲むしかやることがなかった。 キムおばちゃんがいつものように僕らの部屋をノックする(ノックなんてレベルじゃない音で) 「食べなさい!!」 信じられない量のパンケーキ。僕とヨシは慣れている風景だったけど、ヒデさんミワさん夫婦は明らかにカルチャーショックを受けていた。 みんなで朝ごはんを食べながらニュースを見てだんだん全容がわかってきた

          9.11続き5

          9.11続き4

          キム2からの連絡がなかった。 もちろん交通機関は全て止まっているから帰る手段はほとんどないのは分かっている。 それでも心配だった。キム2は何故学校に行ったのだろうか? とりあえずできることがなかったから僕らはキムおばちゃんの家で酒を飲んだ。ミワさん夫婦はキムおばちゃんの家に泊まることになり、ヒデさんは僕とヨシの家で雑魚寝。 ありがたかったのはミワさん夫妻のパソコンで無事です。という連絡ができたことだった。 キム2が帰ってきた。 「生きていたか!!」 って抱きしめられた時のみん

          9.11続き4

          9.11続き3

          僕は今歴史の中にいるんだ。不謹慎だとは思ったが、そんな高揚感がすごかった。レベル0でATMも使えなかったからヒデさんミワさん夫妻と一緒にいられて安心だった。 タクシー乗り場はもちろん長蛇の列だ。 ヒデさんは料理人で、NYの寿司屋で働かないかとのオファーがあり、3日間だけ様子を見に来たとのことらしい。英語が全く喋れなく途方にくれていたが泊まるところが見つかってひとまず安心していた。 ミワさん夫妻はコンピューター会社勤務。夫婦で休暇旅行とのことだった。 ちなみに僕はその当時金髪に

          9.11続き3

          9.11続き2

          午前10時僕はJFK空港に到着した。 空港にあるテレビに人が群がっていたけど、バスケとか野球とかを見ているのだろうと思った。 売店でお土産を買いドルを使い切った。残り50セントまでにした。 家にこれから帰ると電話をしようと思い、公衆電話を使おうとしたが、何故か使えない。 東京便欠航の表示が出た。 前日に東京に台風が近づいているという話を聞いていたから、そのためだと思った。 椅子に座りながら、どうしようかと思慮していたら、突然の喧騒が始まった。 「ワールドトレイドセンターがテロ

          9.11続き2

          9.11続き。

          2001年のクイーンズは田舎によく似ている雰囲気だった。僕が今田舎で暮らしているので、自治という面で家と家の付き合いがキチンとしている印象を受けた。 キムおばちゃんが毎日バーベキューを開いてくれた。「若い子を食べさせることが幸せなの」とキムおばちゃん。夫のルイスは敬虔なキリスト教徒でそれをニコニコしながら見ていた。 治安はあまり良くなかったけど治安が良くないなりの自治があったのを学んだ。 毎日ガロンで出てくるワインで僕は観光どころではなかった。 「お前は何で働きに出ないんだ?

          9.11続き。

          9.11のこと

          あれから20年経った。 あの時僕はNYにいたんだ。当時二十歳そこそこだった僕が9.11を体験した健忘録。 2001年、8月。ヨシって言う気の合う友達がいた。その当時、僕はグランジにハマっていた。大学に進学するつもりはなかったけど、芸術を学ぶ大学に進学した。「だんだん燃え尽きていくよりは、一気に燃え尽きたい」ニール・ヤングのヘイヘイ・マイマイの一説だ。ニルヴァーナのカート・コベインの遺書としても有名な一説だ。 もともと芸術に手を出したのが姉からの虐待が理由だったからグランジ

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