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0円さん、婚活をやめる(後編) 【年間交際費0円さんの今日 #2】

#2  0円さん、婚活をやめる(後編)


転機


ぜんぶ、ぜんぶ、もうやめよう。

そんな気持ちになれたのは、35歳になった朝に目が覚めてすぐのことだった。
結婚前提に交際していた彼から別れ話のメッセージが来たからだ。

いかにも彼らしいメッセージだった。彼のことだから、これは自分が優位に立つための駆け引きなのかもしれない、なんて一瞬考えてみたけどすぐにどうでもよくなって、彼とはテキストのやりとりであっさり別れた。

そしてその申し出をすんなり了承したときに私ははっきりと目が覚めた。

ーー本当は彼と結婚したいなんて思ってなかったんだ。価値観が合わないからじゃない、彼のことを好きじゃなかったから。

彼について一切引きずることもなく、すぐに思考の切り替えができたことには理由がある。最近の私の人生には転機が訪れていたからだ。

実は今日で35歳になるまでのこの一年間、私は長い苦悩の末に決断したことがあった。それは、私の人生に深く関わっていた二人の人物との関係を終わらせたことだった。

一人は母。もう一人はかつての親友。

私の精神面や生活スタイル、ひいては人生そのものに影響を与えた二人から離れ、私は誰かと結婚して明るい未来を切り開くつもりだった。
彼に賭けていた。彼は私と深く関わる三人目の人物であり、今にも窒息しそうな溺れかけの人生から私を引き上げてくれる存在なのだと。

けれどエゴで見繕った間に合わせのパートナーで人生を変えようだなんて、そんなストーリーはやっぱりなかったんだ。

彼からのメッセージを見た瞬間、私はすぐにそのことを察した。
私の転機は彼と結婚することではなく、彼との関係を終わらせることだったのだ。

こうして私はすべてのよりどころを失い、たった一人になった。
ただ、その一方で、これですっかり私の心の「嘘」も消え去ったように思えた。


0円さん、婚活をやめる


婚活をやめよう。

全く知らない誰かから選ばれるための上辺のやりとりをこなす日々。
選ばれないことに落ち込む日々。選んでいる自分に虚しくなる日々。
上手くいきかけた矢先に知る、隠されていた本性に信じる力を失いかける日々。
それらに費やす膨大な時間の中で、徐々に老いて価値を失っていく自分にさらに焦りと不安を募らせる日々……。
そんなことを繰り返すうちに、私の思考回路はおかしくなってしまっていた。

好きになれる人と結ばれたい。大切にしてくれる人と付き合いたい。
それができないのは、私の自己肯定感が低いからだ。
今の私はなにより、自分自身と向き合う時間が必要なんだ。

私はスマートフォンを取り、婚活パーティーの申し込みサイトや婚活アプリをすべて退会した。

すると彼からメッセージが入っていることに気づいた。
「これからはいい友達でいようね! 近くに来たら連絡して! また会おう!」
体に拒絶反応が起こる一方で、私は乾いた感情のまま彼の連絡先を削除した。

続いて母親とかつての親友の連絡先も削除。
あとは……ああ、もういいや。とメッセージアプリそのものを退会した。
これからも関わりつづけるものだと思っていた三人と離れたことで、私の周りにある「つながり」を手放すことはどんどん容易になっていった。SNSや誰かと関わるたぐいのコンテンツもすべて退会処理。

こうして私は誰からもお祝いの連絡が来ない35歳の誕生日を迎えることになった。

私はスマートフォンをテーブルに置いて、朝食を取ることにした。億劫だし、シリアルと牛乳でいいや。

ボウルにシリアルを適量入れ、牛乳を注いだ。サクサクのシリアルは、時間が経つと牛乳が染み込み、ふやけて、どろどろになり、徐々に底へ沈んでいく。牛乳入りシリアルは簡単だが、どろどろのシリアルは好きではなかった。私はすぐに椅子にかけた。いただきます。

……いや、これまでだってたいして祝ってもらったことなんてなかったか。
それでも、たまたまSNSのプロフィールに気がついた見知らぬ誰かが一言送ってくれる程度にはささやかに認知してもらっていた。そんな、インスタントな「相互おめでとう」を視認するだけの誕生日を毎年過ごしていたんだった。
だけど今年は密かに期待してたんだよね。彼にだけはちゃんと祝ってもらえるとあのときは思っていたから。

私は溺れかけのシリアルを淡々と口に運びながら、婚活パーティーでの彼の言葉を思い出した。

「婚活って大変ですよね、年間交際費いくらかかるんだって思ってしまいます」

彼に言わせれば、これからの私は年間交際費0円だ。

婚活や「つながり」をやめたことで、これからはお金も時間も浮きそうだ。

シリアルは、特に何の感想もない、いつも通りの味がした。

大丈夫、涙も出ていない。大丈夫、大丈夫……。



年間交際費0円さんの今日 〜0円さんの憂鬱編〜
#2「0円さん、婚活をやめる(後編)」

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