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降り注ぐ情報の雨。雪。または土砂。

 ここ1ヶ月くらい古代ギリシャの歴史の本を読んでいるのだけれど(紀元前500年位のペルシャとかエジプトとかのあたり。イエスキリストが生まれる前)、昨日はシアター(劇場)についての洞察を読んだ。
 とても面白い記事なので、反応をnoteに書こうとして、ひとりになろうとすると、パートナーと子供が遊んで欲しい。とせがむのだ。

 子供の主張では、お父さんはブログとネットばっかりして遊んでくれないのは家族としてあかんのじゃないか?と言うのだ。
 追い討ちに「もう!携帯ばかり触って、そんな大人は恥ずかしくないの?」と小学一年生が言うのだ。
 僕的には大分子供に構っていると思ったが、自粛で籠もっている鬱憤が溜まるのだろう。毎日、毎日、構わないといけないのだろう。人生における7歳とは全てが手に入る絶頂の時のひとつだ。
 小さな家なのに大きな声でせがむ子供と、それを面白がるパートナーを見て、ヒモの様な暮らしをしてる僕はブログの更新を翌日にする事にしました。

 翌日。即ちコレを書いている今。なのだが、記事に対して反応度が落ちている。いわゆるネタの鮮度が落ちているのだ。
 たった半日で落ちるものなのか?とこれを読む人は不思議に思うかもしれないが、書く人には「ああ、あれなぁ」とうなずいてもらえると思う。

 エッセイに限らず、これを書くのは後にしておこう。とすると、もう新しい情報の波に『これ』が流されてしまい。遠くに、遠くにいってしまう。
 それだと、忘却のようなイメージが伝わるかもしれない。
 違う伝え方を試すと、降り積もる情報の、雪、土、土砂(そう、土砂だ)に埋もれてしまい、忘れてはいないのだけれど、脳に情報が定着してしまうのだ。
 それは、既に持っている情報と『古代ギリシャのシアター』と言う情報が脳の中のネットワークに絡めとられて、霧散してしまわないけれど、色んな情報とリンク付けが進んでしまう。
 まるで、映画館で同じ映画を退館せずに続けてみるような(昔は座席指定じゃなかったので、そんな事が出来た)、2度目、3度目と見る度に目減りしていく驚きと同じ事のような。

 出来るだけ、書こうと思った事、やろうと思った事はその時すぐに取り掛かりたいものである。

(ハリーポッターと賢者の石は立ち見とかだったよね)
(前週の金曜日に深夜先行上映会とかもあったなぁ)
(結局、古代ギリシャについては触れないね)
(まぁ、いいじゃん。ネタのストックなんて器用な事は僕には出来ないよ)

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