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「善意」と「好意」は違うのに。

ご無沙汰しております。
永らく、色んなことがありまして、更新していませんでした。
引き続き、気ままに書いていけたらと思います。

さて。
「善意」と「好意」は違うよね、という話。

有難いことに、私はよく「優しい」と称される。
「優しさ」にも種類があると思うが、私はおそらく目の前の相手に対して、理知的な優しさを発揮することが多いと思う。

例えば。
終電近くの電車で帰宅している時、あまりにも具合が悪く、何なら今でも吐くんじゃないかみたいな人が近くにいました。
その人に対して「大丈夫ですか?」「お水ですよ」と声かけるような優しさは残念ながら持ち合わせていない。
そりゃ、倒れたら救急車呼ぶとかはあるけど。

そういう意味では私は全然優しくないと思う。

でも、会社内で同じチームの後輩がメンタル病んでたら、全力で助けるし、何なら会社に楯突くし、その為に自分を多少犠牲にしたって構わない。私の優しさはそういう類で発揮している。

でね。
ただ、これらの行為ってあくまで「善意」であり、もっと深く突き詰めると、ただの「ポリシー」である。
目の前の人が悲しそうにしているのを放っておけない。
どうすればこの人の助けになるんだろう。

人を助けられる力が欲しいと思ってから、かれこれもう10年経つのか。
とにかく、目の前の人を助けるために、頭を良くし、行動ができるようになり、そうやって私は生きてきただけである。


とても冷たい言い方をすると、目の前の人個人がどう、という話では無いのである。
仲良いあの子も、先輩も後輩も、そりゃ良い人ばかりだし末永く仲良くしたいけど.
「目の前の人A」に過ぎなくて。


それは好意ではないのよね。


でも。
私の善意による行為を、好意で返してくれる人もいる訳で。
中には、「私、あなたからそんな好意貰っても好意返せないよ」って人もいる訳で。
何なら、私と深く付き合って、私の行為が善意で理知的なものであることを分かった瞬間、「ズルいですね」と言ってくる人もいる訳で。


そこに、生き苦しさを感じて、息ができなくなっている一方
私はそういう好意に囲まれているから自由に生きているのだろうな、と後ろめたくも思ってしまうのでした。

これを読む人の中に、同類の人がいますように。

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