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春と父の思い出

 √ 梅は咲いたか、桜はまだかいな♪チョイなチョイな

 父は昔、春になると唄っていた。

 端唄や長唄を習っていたと言っていた。いつのことかは分からない。母と結婚する前だろうというのは分かっていたが、経歴から、いつ、そんな余裕があったのか、とても不思議だ。
 父の育ったのは堺東だった。車で大阪市天王寺区の南の方を走っていた時、父は言った。「この辺で生まれたんだけど、疎開で堺に移って、そこで(空襲で)焼け出されたんや。この辺は燃えへんかったんやけどな。人生って分からんもんや」
 「堺東の今の堺市役所の裏あたり、南側に住んどった。あの辺は丸焼けになったんや。今建っているのは闇市から出来た街や(昭和に再開発がかかって、今は面影はない)」
 「空襲の時は、仁徳天皇陵の南の松林に逃げた。……不謹慎やけど、空襲は、焼夷弾で空がキラキラして、花火みたいで、……綺麗やった」
 その後どうしたのか、いつも父の話は時空を飛んだ。父曰く、焼け出されて、祖母の出身地の三重に行って、松阪工業に編入して、最初、寮に入ったが、栄養失調で腹膜炎になり生死を彷徨って、一年休学し、志摩磯部から始発の汽車に乗って通ったけれど、乗り換えして(時間をつぶすのに、伊勢神宮の外苑で寝っ転がって本を読んだ話が印象的だった)遠いから、新制高校に切り替わった時に、近くの高校に転入して、社交ダンス部を作ったのだと言った。
 ところが、父の葬式の時、叔母は言った。「一時期、高野(こうや、山の者はそう呼ぶ)の親戚の寺で寺男みたいなことをして、刈萱堂の番をしていたんよ。タクシー会社を経営していたけれど、ガソリンはないし、車は供出で取られて仕事がなかったからね」父は高野での話を生前、一言も言わなかった。ただ、父と高野の父の従姉妹とはずっと長い間、付き合いがあり、世話になっていた。

 父は空襲の前に、旧制堺工に入学していた。ただ戦争が激しくなっていたので、ほとんど勉強することができず、学徒勤労動員で、田舎の畑仕事の手伝いを班ごとにしに行ったと言った。勤労奉仕は、当たり外れがあり、親切な農家だったら、そんなに働かされず、農作物のお土産をたくさん持たされたが、こき使われたのに土産がなしの家もあった、と言った。
 また、皆、疎開するので、旧堺市内はタダ同然で土地が売られていて、「なんで買わないんだ」と、父親(私の祖父)と喧嘩したと言った。
 空襲は春だったと言ったり、夏だったと言ったり、着ていたものの季節感といい、土地の売り出しの話といい、時期がよくわからないと思ったら、今調べると、堺は何度も空襲に遭っていた。

 戦後は、疎開先の三重の志摩磯部から大阪に出てきて、いろいろ仕事を変えながら、夜学(大学の二部)に通ったと言った。最初、工業高校を出たと言って(転校したから普通科のはず?)ボイラーの設計をしたが、全く動かず、職人に「そういうこともあるから」と言われたこととか、英語が好きだったので貿易会社にいたこと(多くを語らなかったから、語学は本人が言うほど上手くなかったと思う)を父は話したが、他にもかなり職を転々としたはずだ、と母は言った。

 父方の祖父は、東京の江東区新大橋が本籍で、父の死後、過去帳(父方は元は浄土真宗だった。母方の真言宗は繰り込み位牌で過去帳がなかった)が出てきて、内容に驚いた。先祖は八名川町や深川加賀町、深川元町などの住人だった。過去帳には、祖父とその兄弟、茨城県の野寺三兄弟が出てこないのだ。高野の父の従姉妹は、茨城までルーツを探しに行ったというのに。

 時系列を検討した結果、三兄弟は茨城県の寺に養子に入ったが、時期的にはすぐに廃仏毀釈で、寺が無くなった(聞いた茨城の住所に今は寺がない)のか、深川に戻ってきて、一人は高野の寺に入り、一人は新大橋の米問屋に婿養子に入り、一人は大阪で写真屋になった、ようだ。
 ようだ、というのは、叔母が葬式の時に語ったことには、「父たち三兄弟の結束は固くて、関東大震災の時、高野の伯父と、大阪でタクシー会社をしていた父(私の祖父)が、東京に写真屋の弟を探しに来た」というので、私は大叔父が大阪で写真屋をしていたと聞いていたし、祖父は関東大震災後に大阪に来たのだろうと思い込んでいたので、軽くクラリと眩暈がした。
 父方の祖父は私が生まれるずっと前に亡くなっているから、仕方がない。

 梅の花に、帰る雁。たぶん、野寺三兄弟がいた寺は筑波山が見えるような所にあっただろう。曽祖父の縁者は、深川以外では川筋の上流の人だった。
 
 父の姉妹は成人後、皆、神戸か北摂に住んでいた。父だけが大阪に住んだが、叔母は、たぶん戦前、祖父と大和川に釣りに来た思い出があるからだろう、と言った。

 数年前、東京で1日時間が空いたので、深川江戸資料館や清澄庭園を廻った。そのあたりが祖父の先祖の住んでいたところだったから。
 行く前は、深川だから、京都の先斗町みたいなところを想像して行ったのに、行ってみて、寺ばかりなので拍子抜けした。
 深川江戸資料館では、過去帳で見た年代の古地図のハンカチを買ったら、先祖の住んだ町の周りは武家屋敷で、遠山金四郎の家も書いてあった。
 そして、清澄庭園の近くの下町の雰囲気が、大阪の実家の近くとそっくりなので、仰天した。違うのは、佃煮を売る店があって、シジミを煮る匂いが漂っていたことだけだった。

 父は出張で行く東京が好きだったが、深川へ行ったことはなかったはずだ。
 人生って、不思議だ。
 

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