司書とはなんのためにいるのか?

この3月で社会に出てから丸十年が立つ。
高い理想や志を持っていた訳では無いが、それなりに甘い将来の展望を抱いてなった社会人生活は、何かをなす訳でもなくだらだらと時間を過ごしながら、挫折と諦めでもって転職を繰り返すことになった。
上手いこと進んだ短い時期と長く苦しい辛い時期を交互に繰り返しながら、幾度目かの転職で、大学図書館の司書になることが出来た。そこから部署を移るまで約5年半、司書として働いた。

大学図書館は地方の私立大で予算も人員も満足とは行かなかったが、そこそこの蔵書数と利用者数で、本に興味を持つ教員や学生も少なくなかった。読まない学生の興味を引けるように、好きな子にはもっと色々な本を紹介できるように、図書館をより良く利用してもらえるよう努力してきた。
純粋に本が好きと言うこともあり、図書館で働くのは楽しかった。
もちろん、大学図書館に不満がなかったわけではない。先輩との業務内容の差や提案に対する反応、提出した企画が自分のいない会議であっさりと却下されすこともしばしば。
なにより、不安定な雇用形態と低いままの給料。拭いきれない将来への不安が歳を取るごとに募っていく。詰まる所、お金の話だ。

三十歳を過ぎたあたりでこれからの人生を考えたとき、これではだめだと決意し、なんとかならないかと上司に相談した。
5年以上努めて様々なことをしてきた。評価してくれる人もいたし、これからやってみたいことを話して、賛同する人もいた。ずっとここで勤めたいからこそ、雇用形態を見直してもらえないか、と。

その結果、異動の内示が出た。

事務局長にはっきりとこう言われた。予算がないから正規雇用には出来ない。つまり図書館にこれ以上人件費をかけたくないということだ。それだったらよその部署に行ってくれ、だったら正規にするよ、と。

これ以上はただの愚痴になるので割愛するが、異動して早々に転職を考え、遠く離れた土地で1月から新たに公共図書館の司書になった。しかも今度は地域おこし協力隊としてだ。安定を求めて決意したはずが、またまた不安定なところに来てしまった。

今後どうなるかは分からない。地域おこし協力隊という未知なる仕事が一体どのようになるのか検討もつかないが、図書館司書にこだわった故の結果だ。精一杯やってみようと思う。

長々と書き連ねたが、本題はここからだ。

図書館司書とは一体なんだろうか。

大学図書館に勤めて5年と半年ちょっと。大前提として大学職員という肩書がつくものの、図書館司書として働いた。レファレンスもしたし展示やイベントも行った。利用指導、説明会、はたまた文献調査の仕方についても話してきた。予算の中で選書をし、登録と装備をした本を入れ、特集を組み、展示を入れ替え、日常の中で毎日訪れても飽きないような図書館づくりを頑張った。
しかし、大学としてそのようなことは評価するには至らなかった。

だが考えてみると、図書館司書として結果を残す、とは一体なんだろうか?
司書はどうやって評価されるのだろうか? その評価基準はどこにあるのだろうか? なにをもって司書は、司書の仕事は成果を上げたと言えるのだろうか。

年々予算が減っていく図書館において真っ先に減らされたのが人件費だ。
派遣、毎年雇用、会計年度任用職員。言い方を変えてもつまりは使い捨てられる人材だ。カウンター対応や書架の配架などをひっくるめた事務的、接客業的仕事を賄うための、いわゆる誰でも出来る仕事をする人間を求めているのである。
対して、近年では(というには結構昔から言われていることではあるが)司書の待遇が低すぎるという声も上がっており、雇用形態や賃金面でもっと安定して働けるようにしてほしい、という活動があるとか。
異動を命じられた身としては身につまされる話だ。

だからこそ今一度、しっかりと考える必要があると思う。
司書という、成果の見えない仕事をする上で、なにをしているのか、目標はなんなのか、はっきりと言ってしまえば、存在理由がなんなのかを明確にしなければならないのだ。

人件費の話をすれば一般企業のほうがよりシビアだ。利益がなければ報酬はない。かつて働いた小さい会社での経験だが、給料を支払うというのは大変なことだ。売上を出さなければ来月の支払いが間に合わなくなるから、納期を守るためなら残業も休日出勤もした。業績が悪いのだからボーナスなんて存在せず、ボロボロになって給料のために働いた。
大企業ともなればそれぞれの役割が与えられ見えづらくなってしまうが、中小企業、しかも潰れかけの会社でははっきりと見えてくる。
利益という成果を出せなかった瞬間、そこに存在理由はなくなってしまう。

図書館司書にはそれがない。
図書館という組織自体が社会福祉、地域貢献、知の集積と保存といった目的のためにある公共機関、公務員だからこそ、利益や成果といった話題にはめっぽう弱い。
90年代から普及してきたWebOPACを筆頭に、IT化が図書館の環境を大きく変えてきた。書誌情報の作成や装備、目録の作成、件名項目の設定などかつての司書の仕事は、取次サービスや外注といった有料サービスによって司書の手から離れつつある。高度なレファレンスや資料検索能力でさえ、資料の電子化が進みAIが台頭すれば不必要となるかもしれない。現に普段私達がネットで目にする本のおすすめは、AIが私達の情報から算出したものだからだ。

かつて本のスペシャリストと呼ばれた図書館司書は、いまや絶滅危惧種に近い。それでも司書のいる意味はある、価値のある仕事をしている、その気持ちで働いてきた。
だが、他の人から、もっと言えば上司から見た時に、それは評価に値しないとはっきりと言われてしまった。
図書館司書は、その命題として常に要不要を突きつけられているのだ。

「図書館司書はなんのためにいるのか?」

更に長々と書いてみたが、いまだ答えは見えなかった。
自分はなんのためにいるのか、司書はなんのためにいるのか、暗中模索の
日々である。


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