自己紹介エッセイ(これまでの仕事③)
前回に続きお仕事編その3。
全く新しい仕事
〜テレビ局の映像アーカイブ
日テレアックスオンではアーカイブ推進部というところで、映像ライブラリーの業務をすることになった。
建て替えのため今はなくなってしまったが、勤務地だった麹町の旧社屋は、幼い頃に2度ほど、局員だった父に見学として中に連れて行ってもらったことがあり、私にとっては思い出の場所でもあったので少し感慨深かった。
アーカイブセンターはかつてスタジオとして使われていた独立した建物。確か地下含む4フロアだったと思うが、元スタジオだっただけに窓がない、携帯電波も入らない白い壁の無機質な建物だった。
基本的には、番組側から欲しい過去映像の指定箇所の依頼を受け付けて、マスターテープからDVDにダビングしてお渡しするという作業がメイン。
最初は、各フロアに設置された天井まである保管棚に大量の業務用テープがどういうルールで並んでいるのかを把握することや、初めて見る業務用カセットデッキの使用法・用語などを覚えて使えるようになるまでかなり苦戦した。
また、夕方のニュースで急に必要となったりする映像などは、麹町のアーカイブセンターから汐留へマスターテープから直に伝送する方法があるのだが、直後のオンエアに使われるものだと思うと、この作業も慣れるまでかなり緊張した。
こうした不測の事態にも対応できるように、アーカイブセンターは24時間営業で、入社から半年近く経つと、夜勤もシフトに入ってくる。
交代で仮眠休憩を取るので深夜の数時間1人っきりになることもあり、緊張感もあったが、人生初の夜勤は少しワクワクした。
夜勤中は番組販売用に古いドラマやバラエティを一気にまとめてダビングすることが多かったので、仕事と称して観たことのない番組をイッキ観できることもあってラッキーだった。
そんな中で時折父の名前をスタッフロールの中に見つけ、「ああ、こんな番組もやってたのか…」と知ることがあったのも面白かった。
ちょうどこの頃、数年後に決まっていた旧社屋の取り壊しに間に合わせるよう、全てのテープ素材をデータ化する業務も並行して行われていた最中だった。
古いD2テープは当時の番組だけでなく、テープ出現以前にフィルムで収録されていた時代の映像もダビングされ収められているものもあって、貴重な資料でもある。
そうしたD2、HDCAMテープに収められた映像をデータ化するため、ひたすらエンコードしてゆく作業が同じフロアの片隅で行われていた(←こちらは技術系の別会社の方々による)。
この気の遠くなるようなエンコード作業が数年に渡って行われていて、部内の別チーム(メタデータ班)によって、データ化された映像のチェックとメタデータ付与が済むと、我々が順にマスターテープを倉庫から処分し、棚を空にして行くという流れだった。
入社から1年ちょっと経った頃、私は夜勤後の回復が遅くて体力的にきつかったのもあり、上司と相談の上、日勤のみのメタデータ班に移らせてもらった。
先に書いた通り、データ化された映像のチェックと社内専用ツールで検索可能にするためのメタデータを入力していく作業をするチームだ。
ヘッドホンをして黙々とPC上で映像のチェックしながら、ツールに検索ワードになりうる情報…たとえば、どんな映像なのかの簡単な説明文、出演者の名前、ロケ地、スタッフ名などを記入してゆく。
キーワードは多い方が検索されやすくなるので、出来る限り全てを調べて記入するのだが、古い時代の出演者の多い特番などは調べるだけでも一苦労だ。
また放送日時はファイリングされた大昔の紙の番組表を引っ張り出してきて調べて記入する(そういえばこの大量の番組表もスキャンして全てデータ化しなければならなかった…)など、かなりのテレビっ子を自負していた私でも相当根気の要る作業だった。
大量の映像リストから1人ずつ持ち分を割り振られていたのだが、得意な歌番組やバラエティ、アニメなどの完パケものはあまり苦にならない。
しかし時折巡ってくるニュース映像のターン、これが精神的にハードだった。
ニュースやドキュメンタリーは完パケのみならず、オリジナル素材(カメラマンが取材してきたままの映像)もあり、それらはカットやモザイク処理がされていない。
大きな事件ならそれだけたくさんの映像が残っている訳で、ある程度の期間ぶっ続けでそれらの映像チェックとメタ入力をして行かねばならない。貴重な経験ではあるが、私は精神的にもかなりダメージを喰らった。
第一次、第ニ次大戦中の海外ニュースを割り振られた時もあった。
私は戦争のことを知らなすぎるので、勉強になるかも知れないと思って引き受けたのだが、オリジナル素材は非常に生々しいものもあった。画質はモノクロで粗くとも様子はわかる。
さらに、私はなまじ英語が聞き取れてしまうので、様子を伝えるアナウンスに心苦しく感じることもあった。
日本で放送されるものと、海外で報じられるものの、日本のスタンスの違い…観るのは辛かったが、知ることができたのは良かったと思う。
エンパスやHSPという言葉を知ったのは仕事を辞めてだいぶ経ってからだが、おそらく私はその気があって、自分が思っている以上に精神的ダメージを受けていたように思う。
心の悲鳴より先に再び体調不良になり始め、このメタデータ班も1年数ヶ月で離れることになった。
さらに全く新しい仕事
〜番組イベント、AP
すると上司から情報番組のイベント事務局の担当者が産休に入るので、スポットで入ってみないか?というお誘いをいただいた。
午前中の情報系帯番組の1コーナーとしてある子供向け番組で、半年後に終了が決まっているため、ひとまずそれまでの間、とのことだった。
番組に関わる仕事がしてみたかったし、アーカイブの仕事で精神的にやられ気味だった私には、子供向け番組の仕事はメンタル回復のためにもとても良さそうな気がしたので即座に引き受けた。
異動後、勤務先も汐留日テレタワーの方になった。前任が完全に産休に入る前まで、しばらくは業務の引き継ぎ。
番組に伴う小さな子どもたちと親御さんたちのためのイベントを月1回日テレのホールで開催していて、ママタレさんをゲストに呼んだトークや、0才からでも参加OKの音楽ライブなどをやっていた。
外部のイベント制作会社との打ち合わせや細々と準備すべき項目がたくさんあり、慣れるまで再び緊張の日々だった。
まず驚いたのは、1つ1つあらゆる申請をしなくてはならないこと。
ホールの予約はもちろん、警備員は何名配置するかの申請、ほぼ休日開催だったため1階→2階ロビーへのエスカレーターを動かしてもらうための申請、ホールドアはどのドアを開けるかの申請、ロビーの一部をベビーカー置き場として使うための許可取り、椅子・テーブル・マイクなどの必要な備品の申請、ゲスト控え室の申請、ゲストとスタッフ全員分の入構証と駐車場の予約…等々1つ1つに申請が必要になる。
また直前にはこの申請先の担当者を全員集めて、ホールの図面とイベント内容を照らし合わせながら最終確認の打ち合わせを仕切る。
これは前任が休みに入るギリギリ前までやってくれたが、私1人に任された時は本当にドキドキした。笑
そのほかには、イベント当選者に連絡をして出欠をリスト化したり、イベント時にお渡しすることお土産の準備、プレス対応など…イベンターさんがやる以外の会社側で準備すべき細かなことをやる仕事だった。
オリコン時代にもライブイベントを何度か手伝ったことがあったが、比じゃないほどやることが多く、「イベントは大変」ってよく耳にしていた意味がわかった。楽しいけど。笑
この番組とイベントに関わるスタッフは実際ママさんが多く、イベントを開催するあたり、会場のあちこちに小さなお子さん連れのお客さんを迎えるための配慮がされていたのが、子どものいない私には大変勉強になった。
たとえば、小さいお子さんたちが歩き回ったりゴロゴロしても大丈夫なように、ホール前方半分にはふかふかのタイルシートを敷き詰めて、地べたに座れるようにしていたし、ホール後方には区切られた子どもが遊べるおもちゃスペース、おむつ交換スペース、お湯の出るウォーターサーバーを置いた授乳スペースの設置など、安心してイベントに参加できるように工夫がされていた。
私はすでにマニュアル化されたものを引き継いだだけだが、開始当初はこれだけの整ったイベントにするまで相当大変だったのではないかと思う。
残念ながら予定通り、半年後の番組終了とともに、こちらのイベントも終了で、事務局もバラシとなったのだが、短かい期間ながらも得たものはとても大きかった。
また最後の2ヶ月は母が末期癌で入院になったのと重なって、時短勤務にしてもらったりと融通をきかせてもらえたのもとても有り難かった。
一方、イベントは月1回なので、そのほかに小さな番組2つのAPも同時に兼任していた。
某3分お料理番組と、規模の小さい金曜夜のミニ番組(今はもう無い)で、私は現場に行かないデスク業務だったが、番組制作に関わる仕事はこれまた初めてだったので、緊張しながらも嬉しかった。
ただ居るだけでよかった制作会議も、キューシート(※番組の開始から終了まで、番組の進行上必要な各種の素材や操作指示を、時間進行に沿って書き込んだ表。日テレADPORTAL テレビ営業用語集より)の記入も、関係者を集めてのプレビューも毎回ドキドキしていた。
プレビューでは試写室のコントロールデスクに座って別部屋にいるスタッフに映像を流す指示出しと、CM入り・明けのタイムを打刻する確認作業みたいのがある。オンエア前の最終チェックなので、この段階では滅多に間違いは無いのだが、万が一何か間違えていたら放送事故になりかねない。
小規模の番組なので集まるのはいつも少人数ではあったものの、これもしばらくはとても緊張した。(←ゴールデンの大きな番組とかになると、ここにスポンサーの方々がいらっしゃったりして、さらに緊張度が増すらしい。)
◎参考までに、下記の記事でいうと、、
1.企画会議、7.制打ち、11.下見(プレビュー)、12.納品 というADの仕事の1部をやっていた感じ。加えて一応APらしかった仕事は請求書処理があったくらいだろうと思う。)
上記の子ども向け番組が3月で終了したため、2つのミニ番組にくわえ、新たに4月からBSの子ども向け番組のAPもやることになった。
APなので、すでにやっているものと業務内容は同じ部分も多いが、他にもお弁当発注、控え室の予約とお水・お菓子の用意、メイク室の予約、タレントさん、ゲストさん、子役さんたちのアテンドなど少しプラスアルファの仕事も増えた。そしてこの番組で初めてスタジオ収録現場に立ち会うこともできた。
だが、程なくして4月中旬に母が他界した。もちろん忌引き休暇はいただけるが、頼れる親戚が近くにいない、または高齢であることもあって、病院や葬儀などあらゆる手続きを基本1人でやらなくてはならなかったのと、両親の溺愛していた愛犬も引き取って一緒に暮らすことになったりして、忙しくてパンクしそうだった。
忌引き休暇が明けても、香典返しだの、よくわからない手続きだの、やらなくてはならないことがまだたくさん残ってていっぱいいっぱいだった。
ある日の収録終了後、給湯室でスタッフ全員分の弁当の残飯と空き箱の分別をしながら、「私は何をやってるんだろう…」と涙が出た。
4月に始まったばかりの新番組だったしスタッフの数もギリギリだったから、今辞められると困る!みたいな感じもあったのだが、精神的に無理だった。
5月をもって退社した。
休職→派遣→無職
その後、とりあえず3ヵ月は休みを取った。
だが、貯金がそんなにあるわけではないため、再び8月から派遣で働き始めている。
某大手映像ソフトメーカーで映像配信の営業事務を担当した。以前映像ライブラリーにいたときとまあまあ似たような業務だ。
配信スケジュールの進行管理、配信素材の受け渡し、メタ入力など。
ただ配信は番組オンエア直後から開始されるのと、国内外の配信サイトの数がどんどん増えて、納品形態がそれぞれ微妙に異なるので、常にスピード感が求められて忙しかった。
1つ良かったのは、ここで初めて仕事で英語を使う機会に恵まれたこと。とはいえ、海外の配信サイトとのメールのやり取りがたまにあったくらいだが…それでもちょっと嬉しかった。笑
そこでは半年ほど働いていた。
その最中にも、家のことはまだ片付いておらず、空いた時間はそっちの事も考えねばならなかった。
相続税の支払い期限が思ったより短かったのを知り、ここで急遽実家の処分を決めざるを得なくなった(じゃないと支払えなかった…)。
そこからはまた色々と多忙になり、契約を更新せず辞めた。
実家の売却、納付、引越し諸々片付いた後、なんとなく手持ち無沙汰のようになり、単発の派遣で数ヶ月働いたり、再就職活動もしてみたのだが、ずっと胸の奥底に閉じ込めてきた「このままで良いのか?」という気持ちが頭をもたげてきた。
転職サイトで自分的にドンピシャな仕事内容の募集を見つけたので、「最後にここを受けて、もしダメだったら、もう会社で働くということを一旦諦めよう」と思って応募したところ、見事に書類の段階で落ちた。
でも、内心少しホッとしていた。
ここらで自分の人生を考え直せ、ってタイミングなんだと思った。
これまでずっと自分を忙しくすることで逃げてきた"自分と向き合う"ことを決意するが、迷宮入り。
好きなことがわからない、何もしたくない…という状態がずっと続く。
まずはそこと向き合い、掘り下げることからし始め、途中パニック症の悪化で全く外に出られなくなったりもしたが(コロナ禍だったため罪悪感無く引きこもることができた)、数年経って、今ようやく身体が少し動くようになってきた。
少しずつ自分自身を取り戻している最中なのだろうと思うが、いまだ「これだ!」という手ごたえがなく、とにかく思いつくままあれこれやってみている日々だ。
ただこれを書いてみたことで確信したのは、幼少期からこれまでずっと、無意識のうちに親の顔色を窺いながら生きてきた人生からやっと卒業できそうだということ。
この先は私の第2形態、新章のスタートとなる。。
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