見出し画像

「私の時代」なんかじゃない

西武・そごうが元旦に新聞に掲載した広告に私は強い違和感を覚えた。私自身は男であるし、異性という立場から女性擁護的な発言をするのはどうなのだろうか?といろいろ考えてみたものの、やはりこうした歪曲されたフェミニズムの流布は看過できたものではない。映画「アリー/スター誕生」の感想を綴った 男の嫉妬はマジshitでも言及したとおり、社会はいまだ女性にとって厳しい環境である。些細なことであれ修正し続けなければ、こうした現状は改善されない。意見を表明することは社会に大きな影響力を持たずとも大いに価値があると信じてこの問題について論じていきたい。

▽問題となった西武・そごうの広告

「男も女もない」と言える〈時代〉?

私たちの生きる〈時代〉というものは果たして、「男も女もない」時代…なのだろうか?本当にそうなのだろうか。いや、「男も女もない」=性別によって区別しない世の中を否定するわけではもちろんない。むしろ、私自身もそれを強く望んでいる。しかし、私はこの世界が「男も女もない」と言い切れるほど進歩したものだとはけっして思わない。これが私が西武・そごうの広告に対して感じる最も大きな違和感である。

昨年は「女性への〜」がもてはやされる年であった。それも良い意味ではない。一昨年前から徐々に活発になったハリウッドでの #MeToo #WeToo の動きは世界中に波及し、日本ではフリージャーナリスト・伊藤詩織さんの告白、隣国韓国では政治家をめぐる問題へと各国で裾を広げることとなった。これは近年多発したからではもちろんない。2013年第85回アカデミー賞授賞式、「テッド」のテディーベアの声を務めていることで知られるコメディアンのセス・マクファーレン氏が司会者として「これでハーヴェイ・ワインスタインの気を引くフリをしなくて済むね」とジョークを飛ばし、会場は妙にざわつく。ハーヴェイ・ワインスタインといえばハリウッドを裏でコントロールしてきた映画プロデューサー。彼はこれまで多くの女優に性的な行為を強要する代わりに仕事上優遇するようなセクハラを続けてきた。マクファーレン氏のジョークへのざわつきでわかるようにハリウッドのなかではある種常識として通ってきたワインスタインのセクハラ。しかし、2017年以降の#MeToo運動が活発になるまで世間の目には触れてこなかった。ここに見てとれるように、女性差別をめぐる出来事は取りざたされるようになって多発するのではなく、当然それ以前から「一般的に」行われてきたことが問題化したにすぎないのである。

昨年、日本国内では私立の東京医科大学で女子または三浪以上の受験生に対する一律減点が明るみに出たことを皮切りに、文科省は多くの医学部・医科大学が同様の受験者不遇を行なっていたことを公表。同時に、それぞれの大学の判断による任意の公表を求めた。いまに至るまで公表する大学が後をたたない。

ここで、もう一度問いたい。
いま、この〈時代〉は「男も女もない」のか?

違うじゃないか。男の都合で女が不遇に扱われることがまだまだあると、昨年までに起こった出来事でなぜ気づかない?活躍だ、進出だともてはやされるだけの「女の時代」はおろか、いまだ「男による支配の時代」は続いているのである。それを無視して、「女の時代」はいらないと豪語できるのは、男のエゴのようなものでけっして女性擁護などではない。

政治の場でも同様。女性の活躍を謳うものの実際の動きというのはかなり疎い。現政権は「すべての女性が輝く社会づくり」を推進。米トランプ大統領の娘イバンカ大統領補佐官の女性起業家を支援する基金に57億円を拠出するなど、国内そっちのけの動きを見せている。一方で、迫る2020年までの目標として掲げていた管理職を占める女性の割合30%は夢のまた夢。それどころか、半数の中小企業が管理職に女性を入れていないことが明らかになっている。(下図 独立行政法人 労働政策研究・研修機構より参照)

もう一度はっきり言おう。ここは男性の国で、世は「男性の時代」である。

「わたし」でいられる世の中か?

話を戻そう。例の西武・そごうの広告で最も大きく示されているのは「わたしは、私」というキャッチコピーである。要はこの広告が言いたいのは、「性別じゃなくて個人なんだ!」ってことだろう。「わたし」を見て欲しい。うんうん、よくわかる。理想だ。しかし、これまで散々例を挙げてきたように、時代はいまだ男性先制の世の中。それを無視してさも「わたし」の自己責任のような論理展開はあまりに暴論すぎないか?昨年は「自己責任」といえ言葉が幾度となく飛び交った年でもあった。自己責任というのはものすごく恐ろしい言葉だ。女性が活躍できないのは、個人に能力がないからか?そんなはずがない。あくまで、女性には「ガラスの天井」がつねにつきまとっていることを忘れてはならない。これが完全に取り払われない限りこの広告が掲示できる前提の社会ですらないというのは容易に想像のつくことではないだろうか。私の時代は、女性一人ひとりではつくれない。

心理的にレイプされる「女性」

パイを投げつけられた女性。

—— コピーより先にセンセーショナルな画像、そこへの衝撃が忘れられない。画像というのは文面以上に印象に強く残ってしまうものである。今回の広告をめぐっては、実際にパイを投げつけられたような気分だ、という女性の意見も散見される。「これまでの女性像なんてクソ食らえ!」という意図があってのものなのだろうが、 パイを投げつけられている女性の写真はまさに現状のメタファーにすぎない。あまりに痛々しいものにしかみえない。

制作の意図や真意は別としてcreampieの英語のスラングの意味を考えるとなおも恐ろしい。ここまでくるともう女性蔑視としか言いようのないものである。考えすぎ?これを考えすぎなんて言葉で一掃するのはどうかと思う。悪意と暴力に満ちた暗喩がそこに成り立っているのは歴然とした事実だ。これはもはや心理的なレイプに近い広告といっても過言ではないと私は思う。

「私の時代」に向かうために

いま私たちが生きているのは、「わたし」の力ではどうにもならない世界だ。例を挙げればきりがない。西武・そごうの広告の掲げる「私の時代」は現状のままでは、まだまだ先だ。ファッショナブルな画像に、洒落たコピーをつければ啓蒙か?それは違う。普段ライターおよびコピーライターとして働く私だが、コピーライトの役割は形を取り繕うことではないと思う。あくまで企業の確固たる働きかけが前提としてあって、それを伝える手段にすぎないはずだ。今回の広告を見て、そこに西武・そごうの思いみたいなものは全く感じられなかった。形だけだったのだと私は思う。いや、むしろここに気持ちが込められていてパイ(creampie)を女性に投げつけているとしたら、それはもう女性蔑視でしかないし、そうなってくるととうとう怖い。とにかく、まずは今がどんな〈時代〉であるのかあらためて考え直さなければならない。昨年まで顕在化してきた女性への不遇の数々はそれぞれ個として起こったことではない。何度でもいう。いまだ社会は女を受け入れない「男の時代」の中にあるのだ。男の考える「女性の輝く社会」は、あくまで保身を前提とした「(男が君主であり続けながら仕方がないから)女性が(形式上)輝ける社会」でしかない。それではなんの意味もない。女性が社会に活躍できない「理由」、進出できない「理由」、その打開が最優先課題である。漠然と女性の人権を叫んでなんの意味があるんだ。実際に女性の生き方を妨げる具体的な障壁について議論していく必要がある。もちろんアファーマティブ・アクション(積極的格差是正)は急務である。「わたし」にできることできないことを担うのが、政治の役割。一人ひとりの意識を変えることと同時に政治に対し、そして西武・そごうをはじめとした企業に対し「ガラスの天井」を破るよう求めていきたい。

**「わたしは、私。」

—— そう言える時代がくることを願って。**

#コラム #エッセイ #MeToo #WeToo #西武そごう #広告 #コピーライト #女性 #女性の働き方 #女性の活躍 #ビジネス #随筆

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?