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【自己紹介】 #1釜石でのラグビーとの出会い

 岩手県釜石市には新日本製鐵の釜石工場(以下、新日鐵釜石)があり、そこのラグビー部が1970年代から80年代にかけて日本選手権を7連覇し、釜石市はラグビーの街と言われている。現在は、そのチームは現在はクラブチーム化し、「釜石シーウェイブス」という名で活動している。

釜石シーウェイブスとジュニアチーム 
出典:共同通信

 2010年夏、私は釜石でラグビーに出会った。きっかけは、チームの大会への参加人数が足りず、助っ人ででてくれと親しい友人からお願いされたことだった。「釜石シーウェイブスジュニア」というチームで、特別強くも弱くもない地元クラブのユースチームだった。

 はじめての試合は今でも印象的に覚えている。ウイングというポジションで初めて試合にでた。ラグビーとしてはトライを量産する花形ポジションだが、当時の僕に与えられた任務はラグビーというスポーツを一番端から見て全体的にスポーツを理解し、チームに迷惑をかけないこと。特に変哲もないゲームだったが、初めて自分の手元にボールが回ってきた時のことは忘れられない。ウイングのポジションまでボールが回ってきて、僕の外側にチームメイトはいない。前には敵チームの選手が一人。僕の選択肢はボールを持って走る以外になく、相手選手に何も考えずに突っ込んでいった。見事にタックルをいただき倒されて何もできずに終わった。アドレナリンが大量に溢れ焦っていたからか、特に痛いと感じることはなかった。倒された次の瞬間、味方選手が一斉に自分元に駆け寄ってきた。実際には僕が倒されラックというものが形成されただけだったのだが、僕はみんなが助けに来てくれたように感じたのだ。初めて自分を求められたような、「スポーツの暑苦しさ」を肌で体感し、感動した。

 その試合で入団を決意し、釜石ラグビーの仲間入りをした。シーウェイブスジュニアには7年ほど在籍し、小学生の部ではキャプテンも務めさせていただき、中学では岩手県選抜も経験した。今になって思うが、釜石でラグビー選手としてプレーしたことは、どの地域でラグビーをプレーすることよりも特別なことで、僕の人生に大きな影響を与えてくれた。ひとつは釜石ラグビーを通してたくさんの人に出会えたこと。東日本大震災の震災発生以降の復興ご支援、ラグビーでの強化合宿等で多くの出会いがあった。その出会いは僕の人格を形成しており、またかけがえのない友人やサポーターの皆様とのご縁でもあった。

ラグビーで広がったご縁

もうひとつは釜石ラグビーを通して広い世界を見れたこと。このスポーツを通して、日本各地や世界のプレイヤーたちと交流することがあった。

ニュージーランド時のチームメイト
企画した国際交流プログラム

釜石という地域がラグビーにおいて持っている独特の文化、それは強さだけでなく、人間性や絆、そして団結力といった側面にも表れている。新日鐵釜石がかつて日本を代表する強豪として君臨していた頃から引き継がれてきたその精神は、現在の釜石シーウェイブスでも息づいている。そして僕はその一部になれたことが、今の自分を形成する上で大きな要素であった。

岩手県選抜のチームメイトたち

2011年に発生した東日本大震災では、釜石も大きな被害を受け、ラグビーができる環境ではなくなってしまった。しかし、世界からの温かいご支援もあり、地元の人々はすぐに立ち上がり、釜石の復活を誓った。2019年に開催されたラグビーのワールドカップの開催地の開場地にも選出され、それはただのスポーツ以上の存在となり、人々の希望を象徴するものとなった。その復興のシンボルとしてラグビーが位置づけられた時、僕は再びその暑苦しさと感動を味わった。

釜石でのラグビーとの出会いは、僕にとって人生を左右するような大きな出来事だった。それはただスポーツをするという行為だけでなく、人間としての成長を促し、そして広い視野を持つことを可能にしてくれた。ラグビーで得たご縁や体験が僕の中核を担っています。

※ 私は文章を書くこと、言語化すること、感情を表現することが大変苦手です。厳しく、時にあたたかく見守ってください。


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