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こんな山の中に、明治時代から続く芝居小屋が! 岐阜県中津川市の豊かさに驚く。

郡上八幡で2泊3日を過ごし、美濃市の古い街並みや酒蔵を見学した後は、岐阜県南東部の中津川市へ。
ここで以前から行ってみたかった山城、苗木城址に行き、その後は高速道路に乗らず、できるだけ中山道を走ろうという漠然とした計画。あの国道沿いには、たまに旧中山道の街並みが残っていたりして、とても楽しいルートだからです。
ところがですね、苗木城のようすをネットにあげたところ、「中津川にいるんだったら、ぜひここへ行け」という友人からのコメント。「オマエ、絶対にここ気に入るから」とのことでした。
それは中津川市加子母(かしも)という林業の盛んな集落で、伊勢神宮の式年遷宮の際に使われる檜を切り出していたり、農業用水で小水力発電を行っていたり、明治時代から続いている芝居小屋があったり、たしかに、なにやら見るべきものが多いような地域なのです。
ということで、まずは郡上八幡から直接、苗木城に行き、その日は中津川市内で一泊してから、翌日じっくりと加子母の集落に行くことにしました。

まずは苗木城址の威容に魅入ってしまう。

中津川の市内から北西へクルマで10分ほど。木曽川を渡るときに、右手に奇妙な巨岩が見える。え、もしかすると、あれかな?
脇見運転はやめて、そのまま橋を渡ると、間もなく「右手に苗木城」の案内表示が見えた。『苗木遠山資料館』の駐車場にクルマを停め、さっそく軽い山登り。すると、それほど心拍を上げる間もなく、右手に「足軽長屋跡(撮影ポイント)」とある。さっそく踏み入れて初対面です。予想を越えた威容。何じゃこりゃあ、です。

あれが本丸と天守の跡。多くの人は『ハウルの動く城』を連想するらしい。僕もそう思ったけれど、この城をモデルにしたという話は聞いていない。

これが天守のあった山なのだけど、山がまるごと巨大な花崗岩なのだという。その岩を削ったり、石垣を足したりしながら、この城が作られた。築城は遠山直廉(正室は織田信長の妹)、1500年代前半の天文年間とされる。
ま、とにかく、登ってみよう。この一帯、城址に入る前から、あちこちに巨石を見ることができた。僕はけっこう巨石鑑賞が趣味なので、とても幸せな環境です。

こんなヤツがゴロゴロと。
巨石を平らに均すように石垣を組み合わせる。意外に大変な技術であるはず。
本丸の門から振り返ると、三の丸の大矢倉跡。多くの人は小さなマチュピチュと呼ぶ。
そしてふと思う。苗木城は、まさにこの日が紅葉のピークだったのではないか?
かつての天守は今、展望台として利用されている。いくつかの巨石に穴を開け、柱を立て、空中に広げ、なんと三層の天守があったというから驚く。この造りは「懸造」と呼ばれる。京都・清水寺の舞台を想像すればいいのかもしれない。
300年もの間、天守を支え続けた巨石たち。
そして展望台に到着。これは中津川市内に向かって南西方向。手前の川は木曽川。あれはさっき渡ってきた橋だな。
こちらは南東方向。手前に中津川市内。向こうの一番高い山が恵那山ですね。

ところでとても素朴な疑問。巨大な花崗岩の上に建てられた城ということは、水はどうしたのだろう? 城であるからには、籠城戦に備えて井戸が必要になるけれど、岩の上に水なんて湧くのだろうか? それがあるんですね。しかも井戸は四カ所もあり、そのうちのひとつは日照りでも水が涸れなかったという。
なぜだろう? 誰かわかる人がいたら教えてください。いずれにしても、苗木城にはまた行くと思うので、資料館の人に教えてもらおう。

そして翌日は、明治時代から続く芝居小屋、『かしも明治座』へ。

中津川市内では土足禁止のホテルという、けっこう風変わりなホテルに泊まったのだけど(この話は次回にでも)、外国人観光客が9割ほどという印象。彼らはほとんど旧中山道の馬籠宿や妻籠宿に行くとのこと。そのふたつの宿場を繋ぐ山道が、サムライロードとしてけっこう人気のようだ。
僕はサムライロードを後回しにして、友人お勧めの加子母(かしも)集落に行く。

聞いていた住所をナビに入力すると、北へ国道257線一本で行ける。再び苗木城の横を通りながら、下呂温泉方面へ。時おり木材を積んだトラックとすれ違う。さすが、林業で知られる地域。もっと深い山道を想像していたけれど、途中に道の駅などを見ながら30分ほど走ると、右手に「明治村」と書かれた案内表示が現れたので初めての右折。すると間もなく、この建物が現れた。

見つけたときには、どうってことのない芝居小屋だと思ったのですが… 

奥にある神社の駐車スペースにクルマを停め、小屋を眺める。当初は少しでも中が覗けるといいな、くらいにした考えていなかったのだけど、正面に回ってみれば何と、月曜日以外は見学可能とのこと。

この入り口を見ただけで、タダナラヌ芝居小屋であることがわかる。

入り口に小屋のスタッフと思われる初老の男性がいたので、いきなり矢継ぎ早に質問してしまった。「なぜ、こんなところにこんなに立派な芝居小屋が」「いつ頃のものなのですか?」「地元の劇団の小屋なのですか?」「トイレお借りしていいですか?」
その回答はとても長いものになります。「よろしければ中をご案内いたしましょう」という親切に甘えて、中に踏み込みました。以下、回答は写真とキャプションで繋いで行きます。
※ なお、この施設は無料で見学可能。ですが、維持管理にあたっての寄付は募っていますので、行かれた際はぜひぜひ協力しましょう。

入り口を入ると、まず目に入るのがこれ。基本は地元の歌舞伎の劇団のための小屋なのだけど、地方公演に力を入れる中村一門もたびたびここで公演を行う。中村七之助さんが名誉館長を務める。

この小屋が建てられたのは明治27年。「娯楽のない集落なので、せめて劇場を作ろう」ということになった。しかしおカネがない。とは言えここは林業で栄える土地柄、男たちは木を切り出し、大工をし、おカネ持ちの女性たちが費用を出し、その屋号を引き幕に入れた。その幕は、今も当時のまま使われている。

この引き幕は明治27年創建当時のもの。この中には、旧中京女子大学(現、至学館大学)創設者の屋号も入っている)
幕が開くとご覧の通り。このような地歌舞伎の小屋は、主なものでも全国に30カ所ほど。僕も愛媛県内子町の小屋を見学させてもらったことがあるけれど、こちらはかなり質素な印象。それは落成当時に装飾におカネをかけられなかったから。その代わり、かつての芝居小屋の原型を見ることができる、とのこと。

そして、奈落の底から花道まで。

これが花道かぁ、と思いながら歩かせてもらう。
そして舞台へ。
舞台から客席を見る。ちなみに明治座のサイトを見ると、中村勘九郎でも、この舞台に立つ前は今でも大変緊張するという。
幕が閉まるとこの通り。回り舞台の大きさもわかります。
綱元と呼ばれる、幕などの舞台装置を動かす部屋。通常、綱は滑車で動かすものだけど、ここでは創建当時のまま、竹を滑らせるだけというシンプルなもの。この竹はいつ頃のものなのかわからないというけれど、竹って長持ちするんだな。
舞台の真裏に回って楽屋へ。おぉ、時代劇でもたびたび見る歌舞伎小屋の楽屋そのもの。
楽屋には、有名無名を問わず、出演者たちが落書きを残して行く。役者以外の芸能人も多く、意外なところでは坂本龍一さんのサインも。ここで森林保全について講演を行ったときのものらしい。なるほど。
そして僕は奈落の底へ。ここでは人力で舞台を回す。これもまた、時代劇でよく見る場所ですね。
そしてこれが、奈落の底から花道に登る階段。まるで人生のようだね。ちなみに歌舞伎で幽霊が出てくるときも、たいていこの階段から現れる。僕は幽霊になってしまったのか。
そして再び地上に戻り、特等席へ。この場所からは花道がすべて見渡せる。

という一部始終でした。親切なご案内、ありがとうございました。
なお前述の通り、この小屋の見学は無料ですが、様々な形で寄付を募っています。いちばん寄付しやすいのは、屋根の葺き替えに使われる栗の木の皮、封筒ほどの大きさで一枚500円。この皮に住所氏名日付を書いて渡すと、この歴史ある小屋の屋根に自分の名前を残すことができます。出演はできそうにないので楽屋に名前を残すことはできないけれど、屋根に名前を残せる、というわけです。

後ろから見た小屋の全景。こけら葺きがシブい。
それでは、どうもありがとうございました。次回は芝居を見に来ます。

ということで、加子母の実力に驚きました。
そのほかにも農業用水を利用した小水力発電のようすや、明治神宮の造営に使われるという檜の森を見に行きたかったけれど、この日はこれでお腹いっぱい。
ここにはまた改めて来ようと思うので、今回はこれにて〆とさせていただきます。

そうだ。ここだけは最後にウェブサイトを貼っておこう。



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