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【書評】「見られず」に「見る」こと――『箱男』

 箱男。それは、段ボールを体の上半身にかぶり、街を歩き回る存在だ。段ボールには覗き窓が開いており、箱男はその窓から街中の喧騒を、季節のうつろいを、街ゆく人の姿を眺める。

 箱男はひと目見るまでもなく不気味な存在だが、周囲の人間がその正体をうかがい知るすべはない。正体が箱で遮断されているからだ。箱はいわば匿名性を確保するための装置。箱男は周囲の視線を遮断しつつ、社会を凝視することができる存在なのだ。

匿名性を確保しながら「見る」

 この「匿名性を担保しながら見る」という行為は、何も本作限りのフィクションじみた行為ではない。私たちが普段手にしているスマートフォンも匿名性の塊である。X(旧ツイッター)やインスタグラム、TikTokなどのSNSを通じて、素性も知らない不特定多数の行動や発言を、自己の存在を伏せたまま閲覧できる。スマホを通じて他者の生活を“覗き見”する行為は、箱の中から社会を覗くこととほぼイコールなのだ。

 そう、本作における「箱」とは、現代社会における「スマートフォン」であり、「SNS」である。そして、「箱男」とは今を生きる「私たち」の一つの側面でもあるのだ。そう考えると、「匿名性を担保しながら見る」という行為は、人間の根源的欲求の一つと言えそうだ。

 ……なんて、愚にもつかない想像(妄想?)を、この作品を通じて搔き立てられた。

 もちろん、本作はこのような「箱」=「スマートフォン/SNS」という対比を意図して書かれたわけではない。本書の初版は1982年だし、何より、著者の安部公房は93年1月に没している。

 本作は、SNSはおろか、スマートフォンや携帯電話、インターネットが人口に膾炙していない時代に描かれた作品である。しかし、「箱男」という人物の造形は、SNSが発達するにつれて、より実体が備わってきているように感じる。

 そういう意味でも、『箱男』は現代社会の一側面を切り取った作品と言える。


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