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欠落者

何か誰にも見られる気しないから書いてる途中の小説載せます。以下、

今思えば、俺の人生は操り人形のように他人に操られ続ける無意味で無価値な人生だったのだろう。

それは、ふと感じたものだった。まるで予兆なく人生が終わりを告げるように。痛みと言うものをうまく認識できなくなったのだと思う。火傷をしていたのに1日たって気づいたのはきっとそんなつまらない理由に過ぎない。痛みだけ自分の体と切り離された感覚になるのだ。最初の方は、なんとなく戸惑っていたものの、そこまで不便でもないので気にしないことにした。一般的な社会に生きてきた皆々様はなんとかして治したいだとか思うだろうが、別に知ったことではない。

大して記憶には残っていないが、俺は子供のころから諦めのいい、言い方を変えれば、典型的な「いい子」と言われていたと思う。そもそも、親がいわゆるシングルマザーというやつで他のやつと比べれば貧しい生活をしていたため、子供ながらそれなりに気をつかっていたこともある。度々母が連れ込んでくる男の気色の悪い猫なで声や時々持ってくる“プレゼント”にも内心吐き気を催しながら対応していた。自分にはあまり欲がなく、特に“物欲”がなかったため少しもて余していたところもあったが、もらったものを使ってみると母が大層嬉しそうな顔をするため母親の気分を見計らって使ってやることもしばしばだった。

小学校5年生、春にしては寒い日だった。

母が死んだ。過労だった。

これは後で知ったことだが、母には義妹がいたそうだ。何でも父親がバツイチで再婚をして向こう側に連れ子がいたらしくその義妹に度々お金をせがまれていたそうだ。

「息子の学費が」

「冷蔵庫が壊れてしまって」

「娘の習い事が」

「水道代を」

「ごめん」

「どうしても」

「お金が」

「お金」

「金」

「お金がいるの」

それは年を重ねるにつれ、膨大なものとなっていった。今思えば、母は滅多にお金を使おうとしなかった。服は洗濯を繰り返しよれたものを、ご飯は俺にばかり食べさせようとした。そうして次第に母は追い詰められていったのだ。母が死んで俺は絶望した。何も感じることが出来なかった自分に。葬式は簡素に進められた。あまり覚えていなかったがただただ自分が気色悪かった。棺に並べられた骨を母とした時、俺は何を思っていただろうか。

ひょっとすると、その時から心の痛みを感じ辛くなっていたのかもしれない。


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