ある新聞記者の歩み 9 イギリス短期留学で人生のふくらみが増した。
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ある新聞記者の歩み 9 イギリス短期留学で人生のふくらみが増した。

MENJO,Satoshi

短期留学の巻

元毎日新聞記者佐々木宏人さんからZoomでお話を聞くシリーズの第9回です。30代半ばにさしかかった佐々木さん、短期の語学留学を希望します。その頃は、毎日新聞の経営が厳しくなりつつある時期でしたが、幸運なことに、会社はイギリスへの短期留学を認めてくれました。

◇結婚前に行っておこう

ロッキード事件が1976年火を噴く以前の一時期、ぼくは外信部記者になりたいと思っていたことがあります。新聞記者になった以上、海外特派員ってあこがれじゃないですか。入社当時、大森実外信部長が「泥と炎のインドシナ」というベトナム戦争の現地ルポを連載して、外信記者も事件記者―というイメージが出てきました。一時は“外信記事は毎日”という時代もありました。
でもぼくは英語は学生時代から得意なわけではないし、「オレは、ヘレンケラーだ(字も読めない、耳も聞こえない、しゃべれない―三重苦)」と威張っていました。でも本音は行きたかった。特派員の取材は現地で英字紙とラジオのBBC放送が頼りと聞いていました。当時、毎日新聞経済部はロンドン、ワシントン、ジャカルタなどに特派員を送っていました。ワシントン特派員から帰国間もないデスクだった歌川令三さん(後編集局長、取締役)のところに、「ニューズウイーク」や「タイム」のエネルギーや、中東問題の記事を自分なりに翻訳して読んでもらったこともあります。

だから「Mainichi Daily News」(当時日刊の英文毎日新聞)を自宅で購読したりしましたが、ほとんど読んでいなかったですね(笑)。それを見て、独身で杉並の実家に住んでいましたから母から「もったいない」といわれました。自腹で払っているんですから文句をいわれる筋合いはないんですけど‐--(笑)
当時、すでに34,5歳、独身で親からは「早く身を固めろ」とやいのやいよいわれて何回も見合いもさせられました。ようやく話が決まり、婚約しました。75年の秋ですかね。一年後に結婚式ということになったんです。「英語を習得して特派員になれなかったら、海外生活を送るチャンスはい」と思い込んだんでしょうね。「今しかない‐‐‐」思い返すと無茶苦茶ですね。(笑)

Q.婚約、結婚のいきさつも伺いたいですね。

それは、また別途ということで・・・(笑)。

Q.どんな学校なんですか?

◇リゾート地のボーンマスに

ロンドンから汽車で南に下った、イギリス海峡に面した英国有数のリゾート地として知られるボーンマス(Bournemouth)というところがありました。日露戦争の講和条約“ポーツマス条約”の結ばれた日本でもなじみのあるポーツマスの上の方の港町です。そこに、世界各国からの留学生を受け入れる「ユーロセンター」というのがありました。毎日新聞社の子会社、毎日旅行社がそこに短期英語留学者を送り出すことをやってました。

やはりイギリスは世界に強大な植民地を持っていたわけで、英語は「キングス・イングリッシュが正統派」というプライドがありますから、こういう語学学校が各地にあるようです。ヨーロッパ各地と南米、中東から英語圏の観光客を相手に商売をしようという若い人が多かったですね。大学卒はいなくて高卒の人が多かった感じでしたね。

前から、英会話くらいできないとまずいぞという気持ちがあったわけで、それに毎日新聞が経営危機などという話も週刊誌にはしょっちゅう出ていて、いずれ大変な時期になるから、ある程度能力高めておかないとまずいということもあったのでしょう。
たしか1クール3ヶ月だったと思います。最初ボーンマスで、そのあとロンドンに行って3ヶ月くらい通い授業を受けました。イギリスで過ごしたのは7,8ヶ月の短い間だったけど、この経験というのは、今から思うとすごく役立っています。ただ英語は全然ものにならなかったけど(笑)。

Q.位置づけは、仕事ではなく、短期留学のようなものですか?

そうです。給料の基本給部分は出ました。ありがたかったですね。商社担当の時、丸紅の専務だった伊藤宏という人のところにあいさつに行って、「毎日新聞、経営が大変だけど、社員をちゃんと育てるんだね」と言われました。まあ、自分が行きたいと言って行かしてもらっているだけなんだけど・・・。そういう見方があるんだと思いました。

今読売新聞の科学部などの記者と付き合いがあるのですが、ほとんど在勤中、米国の米国の大学などに、留学を経験していますね。その意味でスゴイですね。国際感覚を持つというのは、このグローバリズムの時代本当に大切と思います。今はコロナの時代で大変ですが---。

注)伊藤宏 丸紅元専務。2001年死去。ロッキード事件で贈賄罪などに問われ、有罪が確定した。桧山広元丸紅会長(2000年死去、懲役2年6月)らと共謀して田中角栄元首相へ5億円のわいろを贈ったなどとして贈賄のほか外為法違反、議院証言法違反の罪に問われた。

◇大ニュースを背に“逃亡”

Q.渡航費とか現地での宿泊費などは自前ですか?

もちろん、そうです。給料の基本給はもらっていたのですが、毎日新聞に信用組合というのがあって、そこからお金を借りました。退職金に見合う額までは貸してくれる仕組みだったと思います。そこで目一杯借り込みました。ただラッキーだったのは、その頃の英国は経済的には“大英帝国の落日”といわれて、ポンド安・円高の時代でした。それまでは日本でのイメージとしては「一ポンド、千円」という感じでした。僕のいる間にそれが「1ポンド800円、700円」位まで円高になって、円の使い出が日増しに変わりましたね。お陰で英国名物のフィッシュ&チップスを普段は、一袋なのが、二袋買っても大丈夫、という感じで為替相場がこんなに実生活に影響があるんだと感じましたね。

Q.でも事実上の倒産といわれた新旧分離が2年後ですね。それでも出してくれたんですね。いい会社でしたね(笑)

そりゃあ、いい会社でしたよ。感謝してます。いまでも足向けて寝られませんね(笑)

Q.短期留学は勤続年数には影響しないのですか?

そのはずです。短期留学休職という名前だったかなあ・・・。ほかの人もそういうケースがあったように思います。特に外信部は中国特派員が香港の大学に行くとか・・・。
いまでも思い出すけど、ロッキード事件のコーチャン(ロッキード社副会長)証言が2月にアメリカの上院の委員会で、日本の政界にロッキード社の飛行機を売るために巨額な賄賂をまいたと証言して大騒ぎになるでしょ。それを羽田で聞いて飛行機の中で新聞を読んだ覚えがあるんです。いわば敵前逃亡みたいなものでした。

注)ロッキード事件 米国航空機メーカーのロッキード社が、エアバスを外国に売り込むために巨額のわいろを使ったとされた事件。日本では全日空への販売のため30億円以上が児玉誉士夫など右翼大物や商社、政府高官に流れたと言われる。
経営が深刻化しつつあった毎日新聞だが、社会部を中心に特別取材班を組み紙面は活況を呈し、「ロッキードの毎日」と言われるほどの評価を得た。
Q.大ニュースに背を向けて、英語の勉強に行っちゃうという・・・在勤中。

そうそう(笑)。ホントなら羽田から引き返さなくては‐‐‐。見送りには経済部のデスクや今の女房もきてましたから、帰るに帰れない(笑)
飛行機の中で村上武雄さんという東京ガスの社長に手紙を書きました。10月に結婚するので、仲人を引き受けてほしいと依頼したんですから、まあ図々しいですね。

◇角栄逮捕の記事をロンドンの公園で

ロッキード事件で言えば、東京にいたら商社担当として夜討ち朝駆けをさせられた大変だった思います。経済部も大変だったわけで、本当に敵前逃亡だったと思います。今考えれば大分恨まれたと思います。
ぼくは、事件で逮捕される丸紅の桧山廣社長さんとか、専務の伊藤宏さんとかとはわりと仲良かったんですよ。同じく逮捕される専務の大久保利春さんという人は知らなかったですが。明治維新の立役者・大久保利通の孫で、ものすごく真面目な人だったという話です。

伊藤さんというのは、、人あたりのいい、おもしろい人でした。人なつこくキューピーさんのような感じで、好きな経営者の一人でしたね。事件前は、次の社長と言われていました。丸紅のビルは毎日新聞の入っているパレスサイドビルと通りを挟んで隣でしたから、時々パレスサイドビルの9階にある皇居を見晴らすアラスカで食事なんかしました。確か最後に1月中旬と思いますが、送別のご馳走だといって二人で食事をしました。そのときに、伊藤さんが、「ここで一番うまいのは何か知ってるか」と言いまして、「牛骨の髄のスープがうまい」と言うんですよ。ぼくは知らなかったなあ。向こうのおごりだったから、いくらくらいしたのかわからなかったですが、うまかったなー。でもロッキードのことはまったく出ませんでしたね。事件記者失格ですねー(笑)。

ロッキード事件については、ボーンマスやロンドンで英字紙を逐一見てました。
そのころは英語漬けでしたから割とすんなり英字紙が読めました。田中角栄逮捕のニュースは、学校近くのロンドンの小さな公園で、「The Times」の囲み解説記事で読んだ覚えがあります。

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◇日本人の習性

英国でおもしろかったのは、世界には人間がたくさんいるんだなということと、日本人はこうなんだというのがわかったことです。
それはユーロセンターというところに行ったときのことで、最初の日に新入生のクラス分けの1時間の英語の能力をチェックする試験がありました。そうすると日本人は、試験となると必死になって向き合うじゃないですか。書いてて40分くらいたって教室を見回したら、各国からの40人位のうち残っているのは日本人だけだったんですよ。日本人は女7人、男3人の10人くらいだったような・・・。全員残ってました。要するにみんな必死になってたんです。少しでも上のクラスに行こうという思いなんでしょうね。でも英語を学びに来たんだから、少しでも下のほうがいいと思うんだけど、“受験、受験”の習性から抜けられないんですね(笑)。

◇「学校」の経験がないサウジ人

たとえば、サウジアラビアから来た20前後の男性、アブドラといったかなー、学校に通った習慣がないようでした。家庭教師についてでも学んでいたんですかね。「学校」というシステム自体が、良くわかってないようでした。いいことだと思うんだけど、授業中に先生が説明している間に突然手を上げたりとか。全然授業に来なかったり、早引けして、他のサウジの連中とロンドンに遊びに行っちゃうとか。日本人の学校の感覚からするとハチャメチャでした。だけど、先生に指されるといっぱいしゃべるんです。
ところが日本人は指されたら必死になって中学、高校で教わった英文法を間違わないように頭で考えて、「Because‐‐なんとか・・」とか言って(笑)。サウジの人は、文法お構いなし単語を並べ、10分も15分もしゃべるわけです。するとイギリス人の教師は「Yor are rubbish・・」「ゴミみたなこと言ってんじゃないの」っていうわけなんだけど、おかまいなしなんですよ。他人の迷惑なんて考えない、あの度胸はすごいですね。日本人はまねできない。不毛の砂漠で生き抜いてきた知恵なんでしょうかね。

◇ラテン語圏の人にはかなわない

でもヨーロッパ圏の人には、英語の学習の習得のスピードはかなわないとつくずく感じましたね。彼らは基本的に同じ民族から派生していると感じました。ドイツ人、フランス人とかスペイン人とかは、3ヶ月であっという間にうまくなる。我々新入生がロンドンからボーンマス駅に着いたときに、学校のバスが迎えに来ているんです。入学当時、駅に集合だったのですね。学校まで行くんだけど、フランスからきたものすごくかわいい女の子と隣り合わせて、僕はその気になって自己紹介をしたんですが、ところが、彼女一切英語わからないんです。それがなんとひと月かふた月たつだけで、もう我々なんかよりペラペラになってしまうんですよ。あれには驚いたな。

ドイツ人も来てるんだけど、先生が英単語でいちばん長い名前は?というクイズで、20字か30字くらいの長い単語を黒板に書くんです。こちらはチンプンカンなわけです。ところがドイツ人の女の子なんか、この前半はラテン語でこうだから、ドイツ語でこうだから医学用語の多分これのことじゃないかとか言って、語学的な類推ができるわけです。ところが、我々日本人はまったくそういうのできないですよね。これはかなわんなと思いました。まあ、向こうはラテン語が元だからしかたないんですが。

もうひとつびっくりしたのは、スイスの山小屋をやっている家の息子がいたのですが、彼は山小屋の案内人なので英語を学ばなくてはいけない。ところが風呂に入ったことがないっていうんですよ。シャワーは浴びているんでしょうが、風呂に入る習慣がないという人種がいるっていうことに驚きました。山小屋は水が貴重品なんでしょうが‐‐‐。年齢的には僕より7,8歳若かったですね。 
日本人の女性が南米の男に“ひっかかったり”、スイスの人と結婚したりとかありました。いまどうしてるかなあ。

◇スペインの同級生宅に泊まり込んでお祭りを

ボーンマスをでてからロンドンにいた時、同級生だったスペイン人の家を訪問したことがあります。ポルトガルの近くのベナベンテという田舎町に、汽車でロンドン、パリ、マドリッドを経てたどり着きました。日本人なんか行ったこともないようなところでした。大歓迎してくれました。確か彼の家に2,3泊しました。5月だったか、マリアの祝日のときでお祭りがありました。黒いマリアでした。それをかついで町中練り歩くんです。それを見た記憶があります。

彼は英語はあまりうまくなく、ぼくと同程度の感じでしたが物静かな男で、クルマの運転をしてくれて、田舎のバルを何軒も案内してくれました。あいつそういえば飲んでたんだろうなあ、運転してたけど(笑)。
ディスコに行って最後の音楽がビゼーの「闘牛士の歌」なんですよ。「なるほどここはスペインなんだ」と納得しましたね。

日本に帰ってからだいぶたってから、スイス人の同級生が訪ねてきてくれたことがありました。政治部のときだったか、夜回り用のハイヤーであちこち都内見学させたこともありました。彼は感激してましたね。でも当時新婚間もなくて地下鉄丸の内線の中野新橋駅近くの2LDKの狭いマンションに住んでいたんですが、なんか黒塗りのハイヤーを乗り回すぼくとのギャップが理解できないようでした。

◇人種差別を実感

僕にとって、あの8ヶ月ほどは、国際感覚なんて言うと大げさですが、グローバルというか、そういう感覚が身についたというか、井の中の蛙でなくなったということがありましたね。当時のコマーシャルに競艇の元締めの日本船舶振興会の笹川良一会長が叫ぶ「地球は一つ 人類みな兄弟」という感じが少しわかったような気がしましたね。イギリスに行く前は「なんか変なことを言うオヤジだな」と」冷ややかに見ていましたけどー。

その裏返しなんですが、人種差別ってやっぱりあるんですよね。こんどのコロナ禍のフランスやアメリカなどの街頭で、「中国人のコロナ野郎」と日本人が言われたとかいうニュースが出てたけど、やっぱりそういう感じってあるんですね。当時、イギリスは移民に寛大な感じではなかったし、ボーンマスなんて、いまは黒人がすごく増えたらしいけど、黒人なんて見たことなかったですね。古き良きイギリスを残そうという感じが町全体にありましたね。

ボーンマスだったと思うけど、夜、中心街のパブに寄っていい気持ちになって海岸近くの高級ホテルに立ち寄ったんです。たまたまパーティ会場の裏からカーテンをめくってそっとのぞいたんです。地元のハイソサエティの人たちがパーティをやってました。たまたまカーテンをあけたら僕と目が合ったのですが、蝶ネクタイをしたジェントルマン(紳士)が何かきたないものを見るような目つきで睨まれました。あわててカーテンを閉めて逃げ出しました。その冷たい目つきは、今でも思い出します。いつもにこやかに対応する英国紳士とは明らかに違っていましたね。

Q.すると、夏目漱石がイギリス滞在中に感じたようなことが残っていたということですか?

そうでしょうね。しかも、いまだにあると思いますね。だからそれをちゃんと踏まえておかないとまずいなと思います。今でも人種差別ということ自体は、ヨーロッパ人もそうだけど、われわれ日本の中にも被差別部落の問題とか、在日朝鮮人、韓国人の問題とか、あるわけで、ぼく自身そういう差別は絶対許せないですね。イギリスでの体験が根っこにあって、差別を受ける痛みは比較にはなりませんが、ネットで見聞きする、平気でヘイトスピーチをする人たちの“コトバ”を許せない気持ちはあります。

特にヨーロッパ人と我々とでは顔つきが違うのですぐにわかりますし、パブなんかで知り合って話していると、酔った勢いで彼らが言うのは、東洋人は目尻が上がってるって。「おまえらこれだからさあ」と両手で目尻をあげる動作をしたり・・・。なんとも白人優位で、アジア人を馬鹿にするというか、イギリスの漫画とか風刺画を見ると、中国人や日本人は必ず目尻があがってます。

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◇オペラやミュージカルを気軽に楽しめるイギリス

ロンドンがよかったと思うのは、ボーンマスもそうだったけど、音楽、演劇、バレー、オペラがとてつもなく安いので、すごく身近なんですね。それでよく行きました。ロンドンでは「ジーザス・クライスト・スーパースター」とか、アガサクリスティ原作の、ロンドンの劇場街ウエストエンドで世界最長の70年間公演を続けているという「マウストラップ」(いまはコロナ渦で中断中)という劇があります。ミュージカルの「ロッキーホラーショー」も見ました。5,6年やってるんじゃなかったかなあ。ちょっとヌードもあるエロチックなやつでしたが。バレーも オペラも安かったなあ、貧乏学生の持ってるお金で週1回くらいは行けたんだから。そんないい席で見られたわけではなかったが、堪能しました。

オペラでは「魔笛」だとか「ドンジョバンニ」だとか「セビリアの理髪師」だとかにも行きました。新聞の公演情報が楽しみでしたね。日本に帰ってきて、魔笛のイタリアからのオペラを国立劇場に女房と見に行きましたが、1回行ったら終わりでした(笑)。チケット高くて、二人で数万円、そうそういけないですよね。

本当に文化と日常生活が結びついているというヨーロッパの奥深さを感じさせられました。文化の深さがすごくある。安いし、ロングランが可能だから収益が成立する。日本の場合はせいぜい10日とか1ヶ月ですよね。

Q.劇団四季がミュージカルのロングランを確立しましたね。

そうですね。それ以前はなかなか・・・

◇ロンドン支局の先輩のベビーシッターも

ロンドンでは毎日新聞の支局によく行きました。明治時代の有名な日本のジャーナリズムの草分けの黒岩涙香が祖父の、特派員の黒岩徹さんの家に何度か泊まりました。彼のロンドンの住まいはテニスの全英大会で有名なウインブルドンにありました。庭付の広い家で黒岩さん夫妻が音楽会とかバレーなんかに行くときに、僕はベビーシッターやってました(笑)。

Q.岩波新書から出た『イギリス式人生』を昔読みました。黒岩さんはイギリス生活を相当楽しんでたみたいですね。

そうそう。彼は英語がうまかったし、腰が軽くてひょいひょい行く人だったから・・・。とても東大法学部卒には見えなかったな―。
彼がロンドン行の準備のために東京の通産省の関係者に会いに来て、クラブに来たことがありました。僕が担当者で案内したと思うんです。クラブに待ってるはずなのに、「いないなあー」と思ったら戻って来て、「通産省の連中が昼休みでピンポン(卓球)やってたからオレもやってきた」なんて。そういう気軽さがある人です。サッチャーの記者会見では、臆せず質問して最後には「トオル!」と指名を受けたという伝説を聞いたことがあります。さもありなんと思いましたあ。

◇婚約者がはるばるイギリスまで

Q.最高の短期留学でしたねえ。

そうそう(笑)。
いろんな意味で一皮むけたところがあったと思います。これはあまり言ったことがないんですが、婚約していた女房、彼女、中高一貫のカトリック系の女子高の英語の教師だったんです。はるばる訪ねてきてくれました。二人でウエールズまで行ったことを思い出します。丁度、ラクビ―五か国対抗戦、といってもイングランド、スコットランド、アイルランド、ウエールズ、フランスの闘いなんですね。見物しようと思ったら満員で入れず、試合の終わった後のパブでの乱痴気騒ぎに巻き込まれ愉快でした。
ただボーンマスの僕が下宿していた家のブランドさんというマダムが、「彼女の英語は本当にキングスイングリッシュで“ヒロトは彼女に教えてもらえ”」といわれたのには、参りましたね。

◇ワシントンで破天荒な先輩に会う

留学を終えた帰りにワシントン、ニューヨークに寄りました。
ワシントンは寺村荘治さんという経済部から行ってた人が特派員の一人でした。す。これがまた破天荒な記者で、戦前のベルリン特派員の、寺村荘一って言ったかなあ、そのせがれなんですよ。とにかく豪放磊落というか、背の高い細身の人で、そうは見えないんですが、全然ものごとに動じない人なんです。

日本に戻って来て、ぼくは彼が大蔵省の財研(財政研究会=大蔵省の記者クラブ)のときに財研に行くんですが、寺村さんは途中でやめて、博報堂にスカウトされて移るんです。博報堂の会長の近藤道生という、大蔵省から国税庁長官をやった人に見込まれたのですね。ワシントン事務所を拠点にして日本とアメリカの関係の情報を上げていたようです。日本に帰ってきて、言ってみればアメリカ人脈を生かして、博報堂の情報収集のアンテナみたいな役割をしてました。ところが、熱海に大別荘を作ったまではいいんですが、披露パーティまでやって半年も経たないうちに死んじゃった。生きてりゃおもしろかったんですが。肝硬変を持ってて、結局動脈瘤破裂でした。別荘から見ると、伊豆大島と富士山が見えてすごいところでした。

ワシントンの自宅というのもすごかったですね。郊外の家の前が湖でボート遊びができるんです。「これくらいじゃないと、ワシントンじゃお客なんか接待できないぞ」なんて言ってました。家も広いし、「使うとき使わないとしょうがないからなあ。借金なんかするときしないとしょうがないんだよ」と。巨額の借金に平然としているんですからスゴイ。とても僕はあんな度胸はないですね。でも本当に面白い人で好きでした。彼も僕のことをすごく買つてくれて、「佐々木は小さくまとまるな、ケチな記者になるな」とハッパをかけてくれましたね。亡くなった時は本当に残念でしたね。

◇ニューヨークで会った通産省四人組事件の当事者

アメリカにいた時の思い出はニューヨークで、通産省から派遣されたJETRO事務所長の内藤正久さんがいたので会いました。子どものいない彼の家のアパートに一週間位居候しましたね。豪放磊落な人で、笑い声が大きくて、包容力のある人でした。通産省担当時代に知り合った官僚で、本当に心を割って話のできる人でしたね。次官就任は確実といわれていました。のちの話ですが、次官の芽が摘まれる、四人組事件という有名な事件の当事者の一人となります。いまでも日本エネルギー経済研所の理事長を引退されたあと、顧問で活躍されていてお会いすることあります。

注)通産省四人組事件とは、1993年に起きた通産省の人事をめぐる抗争。通産省内部の派閥抗争にとどまらず、自由民主党と新生党の代理戦争の性格もあったとされる(一六戦争)高杉良『烈風 小説通産省』(講談社、1995年/文春文庫、2011年)などの小説のモデルにもなった。

内藤さんは通産省の産業政策局長から、普通なら次官になるところ、時の大臣--いま調べると元通産官僚出身の熊谷弘さんでした--が次官にさせなかったんです。ニューヨークの内藤家に泊まった際には、あとで衆議院議員になる松田岩夫さん(小泉内閣で科学政策担当大臣)とか何人かが集まって酒を飲んだことを覚えています。

◇ベタ記事でも書きようでトップ記事になる

寺村さんの話に戻りますが、亡くなったのは、後年の、ぼくが広告局長のとき1996年でした。そのときに僕が述べた弔辞で寺村さんからしばしばいわれていた言葉を引用しました。「原稿というのは、バットを長く持って長打をねらえ。ゴロとかヒットでなく」と。寺村さんは、ベタ記事でも書きようによってはトップになるということを言いたかったのです。彼は、ぼくがワシントンに訪ねたときに、日本から来た新聞の外電を指しながら、「これベタ記事になっているけど、書きようによってはトップになるんだ」と言ってました。こういう教えというのはありがたいことでした。

◇スランプの時ほど原稿を書け

ここで思い出すのは、ぼくが新聞記者になったときに親父(元毎日新聞記者)が言った言葉で、「新聞記者はスランプがある。スランプになったときに原稿を書かないのは負けだ。スランプのときほど原稿を書け」と。確かにそうだと思います。どうしたってスランプになるときがあります。そのときに原稿を書かないとずっと書けなくなってしまいます。
「スランプになったら原稿を書け」、「バットは長く持て」というのもそうだと心に刻みました。その意味でいい先輩、取材先に恵まれたと思います。

Q.いま自分はスランプだなあと自覚したことはあるのですか?

そりゃあ、しょっちゅうありますよ。だって、抜かれたときだとか、相手が1面トップで行くじゃないですか。するとデスクが「何やってんだ!」って。会社行くのいやになるよね(笑)。朝、布団の中で、朝毎読(ちょうまいよみ)と日経の4紙見て、やられたと思えばね・・・あれだけこっちは苦労してるのに、このやろう書きやがってと・・・。記者クラブに抜かれづらで行きたくないですよね。


※ユーロセンター https://www.eurocentres.com/ja/discover-eurocentres

ありがとうございます。励みになります。
MENJO,Satoshi
◎メディア研究者 『ニュースメディア進化論』(インプレスR&D、2019年) 『メディアの先導者たち』(NECクリエイティブ、1995年) ◎ポール歩きを推進するNPO法人みんなの元気学校代表理事