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SDGs史 #3 立場の違いを表明する 「人間環境宣言」への大切な土台

 うっかりと下書きに置き去りだったSDGs#3を発信します。
 「Sustainable Development・持続可能な開発」の「開発」が意味するところを少し掘り下げていきたいので、その布石です。

 1972年のストックホルム人間環境会議の成果は何だったのか?

 元上司が、会議の参加前後の日本の環境行政を振り返った書籍でまとめてくれています。それを足掛かりに自分の言葉で書き留めます。

 結論、5つが重要だったと総括しています。見取り図として示します。

1.各国代表演説で、それぞれの立場の違いを確認
  ↑ この記事は、ここ。
2.人間環境宣言の採択
  ↑これは、SDGs史#4で解説。
3.環境問題のための新機構の創設
4.国連環境基金の創設
5.世界環境デーの制定

  ↑3つをSDGs史#6で解説。

 この成果が、50年かけてSDGsへと発酵していくわけです。

 「哲学」を受講する学生が、「現代社会の授業で会議名と言葉だけ覚えたことあったけど、歴史的な意味合いが分かると急に面白くなりました。」と感想をくれ、励みになったことがあります。
 『note』でも、ストーリーとしてのSDGs史を心がけますね!
『SDGs#2 公害がほしい、との対話』と重複もありますが、ご容赦ください。流れが分かると思うので、そうしました。

それぞれの立場の違いを表明

 まず、ストックホルム人間環境会議の開催時の国連事務総長ウ・タントさんが打ち出した「人間環境に関する諸問題」の一部を紹介します。1969年に出されたものです。当時、ロマンチスト、科学者たちが警告をしていたことを受けて、出した声明のようなものです。

 「国連における討議を通じて、人間の環境に危機が迫っていることが、
人類史上、初めて強調された。
 この危機は、先進国をも発展途上国をも一律にまきこんでいる
全世界的な規模のものである。(中略)
 もし現在の傾向がつづくならば、地上における生命の未来が危険
さらされかねないことは、しだいに明白になりつつある。」

 それに対し、当時外交省の担当官として国連人間環境会議に参画していた金子熊夫氏の言葉を紹介します。この会議の国内報告書を取りまとめた方です。この報告書を読むとすごい編集力で圧巻です。

 「準備委員会の審議が始まってからは毎日驚きの連続であった。テーマは“人間環境”と決まっているものの、具体的にそれが何を意味するか、誰にも分からない状態で各国の代表が発言するのだから、大変である。(中略)流派も趣味も違う大勢の画家がひとつのキャンパスに思い思いの絵の具を叩きつけているようで、はたしてどんな絵が描きあがるのかまったく見当もつかない。」

 当時の日本は、産業公害こそが「人間環境」そのものでした。そのため、1971年に発足したばかりの環境庁(まだ環境省ではありません)の大石武一長官は、次のような演説をしました。一部、抜粋します。ちなみに全文が読めます。とても意義深い、高尚な演説です。

 「たび重なるこのような悲惨な経験を通じて、日本国民の間には深刻な反省が生まれてきたことは当然であります。
 『だれのための、何のための経済成長か』という疑問が広く住民、自治体から提起され、健康で明るく豊かな生活環境を取り戻すことを求める国民の声が潮の満ちるように高まったのであります。
 このような情勢のもとで、経済成長優先から、人間尊重へと、わが国の政治は、その方向を大きく変えることになったのであります。」

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©PIXTA

ほんの50年前は、日本も産業公害に苦しんでいました。
一方で、工業都市の市歌では煙突のけむりを美化して歌っていました。
ある意味、この構造は今も昔も変わりません。

 そして、1972年、田中角栄さんが「日本列島改造論」が出版されたます。
高尚な理念が必ずしも思うようにいかない、のも現実です。

 しかし、ストックホルム人間環境会議で各国の代表が演説をし「国際化」せざるを得なくなりました。「人間環境」に含むべき事柄が多岐にわたっていたのです。

 「公害をほしい」という途上国の貧困と公衆衛生、熱帯雨林、原住民の人権、海洋汚染も「人間環境」だと理解するようになり、その後の環境政策にの影響は大きかったと思います。

 これは何も日本に限ったことではありませんでした。それぞれの国が「人間環境」を喧々諤々と議論し、「かけがえのない地球(Only One Earth)」のためにできることを演説し、他国の演説を聴くことで理解を深めました。

 ここでの各国、各グループの演説が、その後の「人間環境」の方向性を明確にすることになります。

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Photo by Matthew TenBruggencate on Unsplash

 そのうえで、事務局長を務めたモーリス ・ストロング氏を中心に素案をつくり、各国がまた意見をぶつけ、という国連の合意形成のプロセスを経て、最終的に「人間環境宣言」へと昇華されました。

 最初の金子氏の文にある状況から宣言としてまとめ上げる力量、すごいですよね。ここでの経験と信頼からストロング氏は、1992年リオネジャネイロ地球サミットの事務局長を務めます。SDGsの産みの親の一人であることは間違いありません。

 ストロング氏はじめ関係者の皆様に感謝ですね。

 お読みくださり、ありがとうございます!!!!

 これまでの文章は、『サステイナビリティ私観』をご覧ください。
 応援してくださる、と嬉しいです。!!!


「世界を変えるお金の使い方(Think the Earth Project編)」に基づいて100円単位~数万円単位でできること、50項目を実行し、その報告を記事にします。 「毎日使う100円玉にも世界を変える底力があります(P11)」 応援、ありがとうございます!!!!