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ごんたなきむしあまえんぼ


 学級通信『ごんたなきむしあまえんぼ。』
 それは、小学校の教員であった清水きよみずのライフワークのような連載だった。ごんたな子もいる。泣き虫な子もいる。甘えん坊もいる。クラスで起きた、日常の些細なことを綴った日常雑話は、自己満足の塊でしかなかった。
 その学級通信の中でも、最も不人気企画だったのが『みんなの作文』。

 毎週土日になると必ず作文の宿題を課し、それを子供たちの許可なく無断で学級通信に転載をした。おもしろいからという理由だけで。当世、この行為がどう扱われるのか分からない。しかし、当時も当時で別に良しと許されていたわけでもない。

 書かれた方にも(主に保護者がターゲットとなることが多かった)、まさか載せられるとは思ってもいない生徒の方にも、人気のないものだった。隣の家の話はおもしろいけれど、自分の家のことを勝手に書かれたくないと思うのも、まあ分からなくもない。(―子供側から視れば、大人は『完璧』に見えがちだけれど、案外そうでもないのだ。―)

 さて。我々には多くの時間が流れた。
 時の流れは、改行で済ませよう。

 親の心、子知らずと言うが。
 (子の心、親知らずである。)と、子が己で誰に言われるでもなく自然と悟った瞬間、その子の、子供時代は終焉に向かっていき、やがては親サイドへと、視点がシフトチェンジしていく。そして親は、子へと戻って行く。

 今回、有志の方々のご協力により、当時、子であった同級生諸君の許可を得て、当時の作文を一部 加筆修正をして連載させて頂く運びとなった。その役目を担うのが小生であると清水先生が知ったら、どう思うだろう。
 私は、嘘書き。
 同級生諸君が知っての通り、嘘つきは、本当に本物の嘘書きになった。
 加筆と修正により入り混じった嘘と、粗削りな本当の境目を行ったり来たりしながら楽しんで頂けたらと思う。書かないということで永遠になる子ども時代と、書くということで切り取られて確実に残る思い出の。その両方を、今日はみんなと楽しめたらいいと思う。

 そして同窓会に足が遠のきがちな遠い日のクラスメイトにも、この言葉は届くだろう。

諸君、忘れてくれるな。これから言うことは、端から見れば肩書を持った者の。説教ではない。そう見えてしまったら、物事を歪んで見ちゃいけないよ。だって、そうしたら、物事すべてが歪んで見えちゃうから。どうかキミの。その真っ直ぐな目で見て聞いて、届いてほしい。距離をおくというのは、離れるわけじゃない。距離を置かずに近距離に居ることで、お互いに心がパサパサに乾いて離れることもあるだろう。僕は君の選んだ道は、間違っていなかったと思うよ。そうさ。きっとそうさ。だって、

人生は誰しもがままならない。
何かあった訳ではないけれど、何もない訳でもない。誰しもが、この複雑さに耐えて、生きていく。
そうだろ?

誠の友は、何回会ったかではなく、何回相手を思い出したかだとすれば。どんな事があっても、どうにかなるだろう。僕はまた、君を思い出すよ。そしてまた、君にだけ分かる言葉を届けるよ。

 もしも鏡の前の自分が老けたなあと思ったり、周囲の人々の変化、昔の自分を知る者の活躍。時々の人生の段階において、遅れを取ったなあと焦ることがあったら。
 安心し給え。その時は、僕も同じだけ焦っているし、僕も同じだけ老けている。
 

 思い出は、今の自分を落ち込ませる為にあるんじゃない。明日の自分にがんばろうとエールを送るためにあるんだ。

元3年1組 代表 小林栄。




(※学級通信に掲載された子供たちの作文はこちら。)


『なにを書けばいいのか分かりません。』


『知っていると思うけれど。』



『先生の夢はなんですか。』



『るなど』


『はい(。・д・)ノ』※元田中くんの作文



『かかと。』


『シンデレラフィット。』



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