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私の仕事

日本生まれ・ブラジル育ちの私は、ブラジルでは日本語教師、1990年に帰国してからは、しばらくポルトガル語教師をしていた。

学生時代から、依頼があれば翻訳もしていた。その後も、他の何屋をやっていようとも、依頼があれば翻訳はしてきた。

学生時代は日本人学校の生徒相手に英語の家庭教師もやっていた。日本語で英語の文法を説明するという作業を繰り返すうちに、そもそもお稽古ごとの一環として習った英語、早すぎる17歳でケンブリッジのFCEを取ってしまったらその上のクラスは生徒が医者だの弁護士だのと、やたら偉い大人ばかりでついていけず、挫折した英語、その英語がしゃべれなくなった。(苦笑)

学生時代のアルバイトでは文書校正も一年間やった。サンパウロの建設会社で入札用のプロポーザルや事業報告書の校正をする仕事だ。まだワープロもコンピューターもない時代。校正室の隣の細長い部屋には、当時最新だったIBMの文字消し機能付きのタイプライターがずらっと並んでいた。上から覗くと、ボールがちょこちょこ動くタイプライターだ。

元来文法好きで変人だと言われていた私だが、思えばここで覚えた技術が今でも私の根幹を成す礎となっていると思う。文法の成績は常に良かったのだが、学校では教えてくれないポルトガル語の細かいルールをここで学んだ。

翻訳は、思えば近所の子供に読ませようと、タイプライターで打ったポルトガル語をハサミでチョキチョキして吹き出しに貼った日本のマンガ本が最初で、当時の私はまだ10歳、世界では日本のマンガなど知る人すらおらず、てんでウケなかった。当時の私のポル語がまだまだ拙かったということも あるが、それでも今思うと、生まれる時代を間違えたと思う。>爆!

ブラジルでの日本語教師は、生徒が全員私よりずっと年上の大人ばかりで、
自信も威厳もないからツッパていたら、1年で10歳分くらい老けた。>笑

日本に帰国してからは、某ラジオ局のポルトガル語キャスター、あちこちの
学校でポルトガル語教師、ブラジルの邦字新聞社で日系人向け情報誌の記事翻訳やらトピックの執筆業務などを掛け持ち、ピーク時には1週間で10か所も掛け持ち先があるものだから、朝起きるとまず、「今日は何屋だっけ?」と考える始末…。

あの頃はよく働いたなぁ、もうあんな体力ないよなぁ、とつくづく思う…。

当時は既にブラジルからの出稼ぎブームが始まってはいたが、ポルトガル語と日本語のバイリンガル人口が少なく、引く手あまたで仕事の方からやってくる時代だった。バブル景気の終盤で、何をやっても時給も単価も今の2~3倍だったように思う。

当時は年を追う毎に貧乏になっていくだなんて思ってもみなかった。>笑

そんな生活が5~6年続いた辺りで限界を感じるようになった。ラジオで話す内容も思い浮かばない。そのための勉強の時間もない。しかも「教師」という肩書がついて回るので、人にうかつにものも聞けない。

もともと未熟でもの知らずだった私は、自分の「馬鹿度」に拍車が掛かっていくのも耐えられなかった。

そんな折、教え子の導きでブラジルやアフリカに通訳として行く仕事に巡り合った。

実は毒親育ちでASDの「気」があり、躁鬱で対人恐怖症の私、ついでに頭の回転が遅く反応がスローモーションな私。そんな私は明らかに通訳には向いていないので自信はゼロだったが、シングルマザーとして子供を2人育てていたことが糧となり、なんでも出来るような気もした。

ひょっとすると、
当時の私は「火事場の馬鹿力出しっぱなし」で
生きていたのかもしれない…。

日本のお母さん達を見ていると、すごいなぁ、バイタリティーあるようなぁといつも思う。本来の私は気力の「キ」の字もないし、すぐにバテるし、 のろまで面倒くさがりで怖がりで、人並みのことをするのには人の何倍もの時間も努力も必要なのに、あんなに働いたり、その後はアフリカに通ってしまったり出来たのは、子供がいたからとしか考えられない。

ともあれ、ブラジルやアフリカに行ったり、それらから来日した人の案内をしたりを四半世紀ほどした。

ASDの人は皆そうなのかどうかわからないが、「明確な役目」がある短期の仕事であれば、ひたすら空元気で働ける。

その仕事が終われば、廃人同然となる。

それの繰り返し…。

フリーなので収入があるのは「仕事単位」で、それ以外は「廃人」だから、生活はちっとも楽にならない。>苦笑

私が行くアフリカはポルトガル語圏限定で、その他行ったことがあるのは、経由地のみだ。

アフリカのポルトガル語圏はアンゴラ、モザンビーク、カーボベルデ、サントメプリンシペ、ギニアビサウの5か国だ。

資料によっては赤道ギニアもそうだと書いてあるが、それはアヤカリモノとでもいうか、モザンビークが同じ理由でコモンウェルスの一員であるようにスペイン語圏の赤道ギニアが ポルトガル語圏諸国共同体(CPLP)に加入しているというだけのことだ。

赤道ギニアのポルトガル語話者は、下手をするとマカオのそれより少ないのではないかと思われる。あるアンゴラ共和国のお偉いさんが、「赤道ギニアのヤツらは、いったい何を思ってCPLPになんか入ってきたんだ。ポルトガル語もしゃべらんというのに会議でああだこうだと文句を言う」と言っているのを聞いてしまったこともある。

というわけで、私の実質的に行ったことがあるアフリカ葡語圏は上に記した5か国で、そこで農業開発、井戸掘り、港湾改修等々の仕事に携わった。

日本でも、お医者さん、政治家さん、下水道屋さん、地デジ屋さんに警察屋さん(笑)などのアテンドをした。

下水道屋さんのアテンドでは、「開発庁パワー」による北海道の素晴らしい処理場を見たり、地デジ屋さんに同行した際は、東京タワーやスカイツリーの一般の人が入れない「秘密の部屋」に入ったり外に出てアンテナを間近で見たり、警察屋さんの研修の通訳をした際は、サリン事件の写真集を見せてもらったり、検死に立ち会ったり…(オエッ!)、ともかく通常ではあり得ない経験をいっぱいさせてもらった。

行動力のない私がこんなにも豊富な経験が出来たのは、声を掛けてくれた 教え子と、やはり元を辿れば子供のお陰というものだ。

感謝!!

そんな私も年齢とともにアフリカでマラリアに罹ったり、それ以降集中力が異常に落ちたり空元気が続かなくなってきたりと、悩みどころ満載になってきたところで、ちょうどとある長期の仕事が打ち切りになり、2年程前からアフリカに行かなくなった。

昨年は疫病問題もあり、収入は三分の一程度に激減…。

現時点でも生きていけそうにないのに「老後の2千万円問題」もある。

うーん…。

そういやぁ、私にはこれまで積み上げてきた経験と、20年以上継ぎ足し継ぎ足しで育ててきた専門用語のデータベースがある。

できるものなら、体験本やデータベースを基にした単語集などを出版したいし、「出稼ぎ二世」なる人口が増える中、彼らの多くがブラジルでの社会人経験がないことから翻訳者と謳っていても、見ると小学生の作文のような 言葉遣いだったりするので、後継者育成も急務だと感じる。

しかし、なんといっても行動力も系統だった作業も下手な私のこと。偏屈だから、単語帳作りも他人の手を借りて上手くやれる自信がない。

そこで、いろいろ調べ考えた末、「note」に辿り着いた。ここで体験談等を順不同に思いつくまま綴って行き、信頼が得られたならば、データベースを
切り売りし、いずれは翻訳者育成の一環として作文添削などもやっていこうと思う。

それなら単発の翻訳業務を行いながらも、プラスアルファの収入源になる かもしれないし、なにより今までなかった「ポルトガル語だけはできると いう証拠」として翻訳依頼者に見せる材料にもなるではないかと考えた。

更に言うと、かねがね気になっていた、ブラジル人が欧州葡語を馬鹿にしてしまう問題などについても、出来るだけ多く発信していくことで、あるかもないかもしれないオリパラで来日する人々も、それに関わる日本人も、少しでも嫌な思いをしないで済むのであらば、それぞ「めっけもん」じゃないかとも思う次第だ。

どうなんだろう…。 

高望みし過ぎかな…。

*****

長々と書いてしまいましたが、
最後までお読み頂き誠にありがとうございました!






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