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発達障がいについて思うこと

レッテル張りのメリット、デメリット

発達障がいについて、今現時点で感じることを書き残しておきます。

まずは自分自身、学生時代にそうかなと考えて調べたりしていました。で、そうかもしれないけど、社会的に普通に生きていきたいので世間と折り合いつけていこうと結論づけた経緯があります。つまり自覚を持ちながらレッテルを貼られないという選択をしたわけです。

息子もかなり変わっていましたが、おかげで?私は彼の気持ちがわかり、学校制度さえ乗り越えれば社会的に普通に生きていけれそうだったので、いかにかいくぐって学校時代を無難に終了させるかに親として注力しました。息子もレッテル無しで行けるだろうと判断したんですね。

これは程度というか、性格やその他の特性で判断が変わると思います。とても優しく素直な人なら福祉のお世話になる方が幸せかもしれません。知能もまた別の指標だと思っています。 

発達障がいの認定にはメリットとデメリットがあって、それを受ける度合いも個人差があるので、一人一人の答えが違うということを周りの大人たちは認識する必要があります。

自閉気味で多動気味というのは別の言葉で言えば、集中力や探究心が並外れていて頭の回転がめちゃくちゃ速かったりするのです。

それを活かして学校制度をすっ飛ばして社会的に自立する道を整えてあげるという選択肢も大人たちの役目としてあるんじゃないかと考えるようになりました。

発達障がいを矯正する必要があるのか

発達障がいと認定されると薬が処方されます。薬はなんでもそうですが、他の助けを借りるということで軸は自分にあることを忘れないようにします。

でないと心が薬に頼るし、本来の自分がどういうもので何に気をつけたらいいかもわからなくなってしまいます。何より自分自身の適応力が衰えてしまうのです。

知能面で支障がない場合は過集中を調整する術、多動気味に気付き付き合っていく術を人生かけて体得していくのは大切なことなんじゃないでしょうか。

すぐにフツーになってほしい、周りの子たちと協調してほしいなんて大人のエゴかもしれないと一旦落ち着いて考えてみて欲しいのです。

発達障がいの子と接して気がついたこと

今ご縁をいただき発達障がいの子の勉強をみています。頭の回転がめちゃくちゃ速いですが、無理強いされると拒否します。

友達関係につまづいて不登校になった時期があり、その分勉強が遅れたのですが登校出来るようになっても遅れた勉強はほったらかしで当たり前ながら今の勉強について行けない。学校にただ行っているだけです。

学校に来ていることで学校側は満足しているのか、それとも一人だけの勉強をみる余裕がないからなのか、定かではありません。これって学校に行く意味あるのかなと思ってしまいますが、お仕事している親御さんにとってはこれだけでも有り難いかもしれません。

掛け算を習う前に不登校になったので掛け算をまだよく知りません。周りは焦ってもうみんな知ってるからとか、これ便利だから覚えようとか言いたくなるんですが、この言い方だとなんかムカつくから言う通りにしたくなくなるんですよね。

私は小2で掛け算知らなきゃいけないとは限らないんじゃないかと思い始めています。

一つ¥500のオモチャを3つ買いたいとか、倍数が足し算で手に負えなくなって、掛け算使おうって本人が思ったらあっという間に覚えるだろう知能は持っているからです。

今なぜやんなきゃいけないのかの部分が希薄でやらせなきゃという大人たちの気迫だけが伝わってくるんだからやる訳ないじゃんと思ったんです。

一人一人のカリキュラムが違う方が本来かもしれない

要するに学校制度の指導要領とは順番が違ったりカテゴリー分けも違ったりすれば社会性のある人に育つ可能性は十分あると感じました。

これって他の子にも当てはまること多いんじゃないかなと思っています。

一人で見つけられる子もいるだろうし、親や周りの人たちが道筋をつけてあげる子もいるだろうと思います。

いずれにしろ教科書通りに覚えることだけが正解じゃないし、最終的に社会的に生きていくという人としての目的を見失わないで子どもたちと接していく、育んでいくことが大人として一番大切なんじゃないかと感じています。

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