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「書く会」はじめます

「ゆっくり本を読む会」では、いままで早朝に「短い文章を読む会」をやっていたが、最近は「書く会」なるものを始めている。これはみんな会の中でもくもく書いてもらって、どんなふうに書いたのかを共有する会である。今のところはこの形式で開催しているが、今後、回を重ねていってどんどん改良していこうと思っている。以下の目的があってこの会を立ち上げることにした。

「書く会」を通じて書くことの楽しさをみんなに共有したい!

ぼくは元々本を読んでその中の文章に触発され、書いてみたい!という欲求はあったけど、なかなかどうして書きあぐねていた。小説や文芸評論みたいなも書いたことがあったけど、しっくりきたことはなかった。でも、最近になって「読む会」を始めてみて、そこを通じて文章を書いているが、なんとなく書くことって楽しいかも、と思えるようになってきた。そしてたぶん、書くことを楽しめる人が周りに増えていけば、もっともっと楽しくなるのかなと希望的観測がある。なので、この会には「あんまり書いたことない」人や「書きたいけど書くのが苦手」という人に参加してほしいと思っている。この会で「今後も書き続けたい」「書けなかったけど書くのが楽しくなってきた」と思ってもらえれば、これほど主催者冥利に尽きることはない。

この文章では、書けない人が書けるようになるにはどうすればよいか?を考えていきたい。

そもそも「書く」とは何か

「書く」とはなにか。人はなぜ書くのか。

ぼくは小学生の頃、親の仕事の都合で色んな地域に転校した。そんな中、青森から東京の学校へ転校する時、ぼくは青森の学校のみんなに向けて文章を書いた。ぼくがいた青森の小学校は田舎で、生徒数が少なく全校生徒が40人ぐらいしかいなかった。そんな小さなコミュニティだからこそ親密な関係を築くことができた。また、田舎の山で遊んだり、秘密基地を作ったりした。その空間がすごく楽しくて、みんなと別れたくなくて、その思いを文章にした。その文章は学校新聞のようなものに載せられ、先生にも褒められたような気がするけど。その時はじめて「文章書いている時、楽しかったな」と思った記憶がある。でも、いつからか文章を書くのが苦手になってしまった。絵を描くのだって、歌うことだって、小学生の頃楽しかったのに、なぜかやらなくなった。

そういえばあてもなく歩くこと(彷徨)も好きだった。よく親と出かけた時は迷子になってた。記憶にないけど幼稚園の頃、スーパーで迷子になり、そのまま歩いて隣り町まで行って見ず知らずの小学生と遊んでいたらしい。よく警察のお世話になった。家出をしてどこまでも続く直線道路の歩道をひたすら歩いていた記憶もある。

そう考えると文章を書くことはこのあてもなく歩くことに似ている。歩くときによく知っている道を目的地に向かって進むのは、自分がわかっている情報だけを書くことに似ている。正直言ってそれだけだと歩くのも書くのも面白くはない。そうじゃなくて、どこにいくかもわからず、ただ彷徨しているだけ、そんな中で歩いたり書いたりする方が面白い。なぜなら、不安定なもの、偶然性に身を晒せるからだ。でもそれは闇の中でただ彷徨しているわけではない。歩いていると面白そうな場所や美しい景色がみつかったりすることがあるように、書いていると急に面白そうなものや美しいものが見つかることもある。急に立ち止まったりして別の方向に向かうこともある。突然迷子になったと思い不安になり、家が恋しくなるように、書き進めているとこれでいいのか、急に不安なる。それら全てが「歩くこと」、「書くこと」の体験である。

たぶん、子どもの頃は面白いものに出会ったときの興奮も、急にくる不安もすべて一色たんに楽しむ力があったのだ。不安定なもの、偶然性を楽しむ力があった。でも、いつからGoogle Mapみたいなものがないと未知の場所にいけなくなってしまった。今のインターネットは歩くにも書くにも何をするにも指標が用意されている。

この文章も「書く会」について何がしたいのか分かりやすく、システマティックに書こうと思ったが、なんだかあてもなく書いてしまった。とにかく、書くこととはぼくにとって何かに至る手段ではなく、書くこと自体が目的であり体験であり快楽なのだ。
うる覚えだが、岡本太郎も「作っている最中が至高であり、作ったものは石くれに過ぎない」というようなことを言っている。人はつくる過程において快楽得られるようだ。

つまり「書く」とはなにか?不安定な偶然性のうちに起き快楽に身を任せながら文字を紡ぐ、体験である。

しかしなぜ「書けない」のか

しかし、目的なく書くのはなかなかむずかしい。書くことへの飛翔のためにはなんらかの足場(形式)が必要になってくる。この章ではいかに足場を設定するかを考えていく。
書くときにハードルがあるとしたら以下がある。

  1. 書くことがない

  2. うまく書けない

  3. 書いてもどうせ誰も観てくれない

ひとつずつ考えていく。

書くことがない

まず、書きたいけど「書くことがない」について。
絵や歌は、好きな人の模倣から始まる場合が多いのに、書くことに関しては自らの力に頼らなければいけないような気になる。自分のうちから出る言葉だけで勝負しなければならないと思ってしまう。でも、本当はだれかの模倣から初めても全然いいんじゃないかなと、ぼくは思う。書きたいという欲求の初動はやっぱり好きな文章を読んでしまって、それに感染してしまうことから始まるので、それについて書くのもよいが、それを模倣しようとするのもいい。この場合はパクることに関してある程度寛容になる必要がある。「あれ?自分って意外といいのかけるじゃん!」って経験が次のステップに行くために必要となる。

また、「書くことがない」ことから書くのもよいかも。この「書くことがない」という状態は非常に深い真理をもっている。村上春樹の処女作『風の歌を聴け』も書くことがないというところから始まっている。そこからスタートすることで自分なりの文章が書けるような気がする。

うまく書けない

「うまく書く」ことに関してはある程度は技術が必要。技術というのは基本的な文法であったり、読みやすい文章構成だったり。しかし、技術だけになってしまうと無味乾燥、機械的になりつまらなくなってしまう。なので、うまく書くことだけでは人に伝わる文章はできない。そのなかで書く人固有の欠損が必要になってくる。

「書くことがない」と同様に「うまく書けない」深い真理をもっている。そもそもぼくが思うに、書くことは不自然な行為だ。自分の気持なんて自分でもわからないし、わかったとしても文章にすると無理が出る。これは自分以外を書こうとしたときも同様である。人は一人ひとり内面違うし、みているものも違う。同じ体験をしたとしても、違う感じかたをする。でも、他人に伝わる文章にする場合それらの差異をある程度フラットに必要がある。でも、完全にフラットにする必要はない。

文章と文章をつなげるのが難しいようであれば最初は箇条書きで書いてみるのがいいかも。人の思考の流れはしっかり繋がっているというより、ゆるいつながりで流れていくので、強いつながりのある接続詞や反発する接続詞に当てはまらない場合がある。なので、無理やりつなげずに箇条書きでまずは書いてみてもいい。

書いてもどうせ誰も観てくれない

名の知らぬ人の文章なんて誰も読まない、誰も読んでくれない文章を書く意味って何?みたいなことを考えるとどんどん書けなくなっていく。やっぱり、他者がいないと書くことは難しくなってしまう。
これに関してはこういう書くコミュニティを成長させることによって解決される気がする。
みんなで無理なく自然に書き、自然に読めるような会を目指していきたい。

まとめ

書くとは何か、なぜ書けないのか考察していったが、ぼくにとって書くことの軌跡は以下の図式になっていると思う。

書くことの軌跡

書くためにはまず、形式Aから入っていくが、しかし、書き進めていくうちにどうしても形式からはズレてしまう。そこが彷徨の入り口となりさまよっていくが、いずれ書き終わり、形式Xを見つける。最初から形式Xを目的としたわけではなく、結果的にたどりついたみたいな感じになると思う。

「書く会」でもこの「ゆるい目的」を共有していきたい。確固たる目的があるわけではなく、でも書く足場は持っている。いい感じのポイントがみつけられるように会を進めていきたいです。

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