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日本の花見と英語のHanamiは何が違う?→10g違うという話

自分が花見をしている状態を思い浮かべて欲しい。さて、どんな情景を思い浮かべますか?もしかしたら、こんな感じ?

公園があって、人がたくさん居て、ざわめきがあって、一緒に見る人が居て....花見と聞いて下のような情景をイメージする人は植物学者だろう。

加えて、花見を1人でするイメージもパッと上がってこないのではないだろうか。

ここで私はこう思うのです。花見をする前提とは、一緒に見る人が居るという前提じゃないのかなと。そして、辞書で花見と調べてみると、やはり日本人の価値観では、花見の主役は「人」であるという気がしてならないのです。

「遊び楽しむ」なので、人が居てこその活動ではないだろうか?

で、英語の辞書で「hanami」と検索してみると、違う結果が。

桜が開花した時にそれを眺める習慣

Hanamiから人の気配があまりしない。むしろ、バリバリの植物学者という感じがする。


日本の花見は、花を見るのを楽しむ機会ではなく、むしろ、花を一緒に見る人との時間を楽しむ機会ではないかなと思う。こう考えたら良いのかもしれない。

を一緒に

と、「一緒に」を補ってみると、「桜の花を素材通して、みんなで春の訪れの空気を共有することで春の到来を祝う」意味合いが出てきて、非常に日本的だと思う。

桜の花を通して、共感を呼んだり、そこに生まれた春限定の儚い絆を楽しむのが日本の花見の良さだと思うのです。

英語の花見は、単に日本語の「花見」を直訳しただけなのでFlower viewingの概念しか無く、それゆえ花に目線を向ける活動でしかないように見えてしまう。だから花見の裏にある、人間的情緒はHanamiに含まれていないと言えるのではないでしょうか


翻訳という角度で花見を見てみたら、翻訳の奥深さが見えてこないだろうか?

日本語にはあった言葉の裏にあった重さが、翻訳されると失われてしまうという現象だ。

Hanamiは花見をローマ字式で書いて英語風にしたものに過ぎないが、何かが抜けた。そう、魂が抜けたのである。

以前聞いた話を思い出す。人が死ぬ直前の体重と死んだ後の体重を比べたら、死後の体重のほうが10g軽く、これは魂の重さ分じゃないだろうかという話だ。

これに照らし合わせて考えてみると、言葉は外国語に翻訳したら、おそらく10g分の魂が抜けて軽くなるのではないかなと思うのです。


いつも記事を読んでいただきありがとうございます。英語学習に苦しんでいる方、つまらなそうに嫌々語学を学んでいる方が周りに居ましたら、シェアしていただければと思います。楽しく、深く、語学に取り組める人が1人でも増えたら幸いです。