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観客の杞憂

娘と某新喜劇を見に行った。今回は、子どもの頃から慣れ親しんだスター芸人さんが座長ということもあり、とても楽しみにしていた。

新喜劇といえばお決まりの、決まったボケに決まったツッコミ。この役者さんがこの流れでこうきたら、絶対アレがくるよねという観客の予想に、きっちり応えて毎度同じアレを見せてくれるのが新喜劇の醍醐味なのだ。
だからこそ毎度安心して笑うことができるし、新喜劇が愛され続ける理由はそこにあると思う。

しかし、今回の新喜劇はちょっと違った。座長は「アドリブ祭り」という名のもとに、若手の役者さんたちに次々とアドリブを求める、という回だった。
構図としては、台本通りの流れが進む中、座長が若手の役者さんたちに「…となりますが、ここで会場の皆さんが大爆笑できるように渾身のボケをお願いします。3、2、1、どうぞ!」みたいな具合で、振っていくのだった。

役者さんたちは、座長から振られるアドリブに、しどろもどろしながらも必死で応える、という流れが要所要所で繰り返された。そして観客はそれを見て笑う、という流れ。

これを見ているうちに私は「いや、なんか違うぞ」と感じ始めた。
アドリブでしどろもどろになっている芸人さんたちと、それを笑う座長、という構図を見ているうちに、だんだんと「イジメ」を見せられているような気持ちになってきた。いや一緒になって笑っている私は、イジメの共犯者か。

若手芸人さんが気の利いたボケを返せなかったとき、会場に流れる微妙な空気。これは若手芸人さんが「オモロくない」、からではない。
次のタイミングでオモロいことを言えなかったら、この芸人さんはどうなってしまうのだろう、そして劇の進行はどうなるのだろう、と安心して見れなくなった観客の不安が、この微妙な空気をつくりだしている気がした。私の考えすぎだろうか。

アドリブがいろんな役者さんに振られるうちに、私の不安がいよいよ止まらなくなってきた。

うまくボケきれなかった役者さん、今心の中でどんなことを考えているのだろう。こんなイジメみたいなこと、いくら仕事とはいえ公衆の面前で何回も繰り返さると、私だったら舞台上で泣いちゃうよ。仕事上、いつも笑ったり笑わせることを求められているけれど、実は心の中で泣いていないかな…

と、役者さんに感情移入してしまい、もはや新喜劇を楽しむどころではなくなってしまったのだ。

私が新喜劇に求めているのは、秀逸なアドリブではない。
新喜劇だからこそ、長年使い古されたボケとツッコミを相も変わらず繰り返していてほしいし、時に噛んだりスベっている姿もありのまま見せてほしい。台本通りにいかない瞬間を観客として目撃できるからこそ、臨場感があるし、役者さんたちに親近感も湧くのだ。

そんなことを思いめぐらせているうちに、舞台の幕は降りた。幕が完全に下りるまで役者さんたちは全員、ニコニコと役柄を演じ切っていた。最後までプロフェッショナルだった。

帰宅し、風呂に浸かりながら私は思った。
今日座長からスベっていた「ことにされていた」若手役者さん、やっぱり私が思うほどメンタルが弱いわけないだろう。

私が尊敬する野性爆弾のくっきーさんは、以前こんなことを言っていた。
「本当に恐れるべきは先輩ではなく、後輩。先輩はいずれ自分より先に消えるけど、後輩は違う。後輩は自分より若く、勢いがある。そして何より無限の可能性をもっている。油断していると自分なんかすぐ抜かされる。だからもっとも恐れるべきは後輩。」

今日スベった「ことにされていた」役者さんは、いつかきっとリベンジするにちがいない。
本当に恐いのは先輩ではなく、後輩なのだから。


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