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願い事

私が感じている責任感は、勝手に作り上げたモノかもしれない。
私が感じている怒りは、私が勝手に感じているだけかもしれない。

私は母方の祖父母は小さいころに亡くしてて、父方の祖母も早くに亡くした。
唯一、祖父だけが生きていた。
お正月には駅に迎えに行って、一緒におせちを食べた。
電車を一人で乗れるようになった頃は、祖父の家で料理をしたり、いろんな話もした。
父は3人兄妹だけど、孫が私しかいなかったから。
それはそれは大事にしてくれた。

父が亡くなったときに、母に言った言葉は許せないままだった。

母が亡くなった知らせをした次の日に倒れてからは、地元に帰る度にお見舞いに行った。

脳梗塞で半身不随、糖尿病で目も殆ど見えなくて、片耳だけ少し聞こえる程度。
それに加えて、認知症も出始め、胃ろうの手術をしたときもあった。
普段は車椅子。
一生懸命発したであろう言葉は、意味の分からない音だった。
そうやって13年経った。

賛否両論分かれる事だが、私はこれを『生きている』と思えなかった。

私がお見舞いに行ったときは、これまで見たこともないくらい、毎回号泣して、私に何かを伝えてた。それすら私には何か分からなかった。
私の手を握り、頑張って立とうとする祖父の姿はとても悲しいものだった。
でも私は涙を必死で堪えて堪えて、どうせ見えないであろう笑顔を作り、久しぶりだね、なんて言ってた。
ああ、意識があって、感情があって『生きて』いた。

どんな気持ちだっただろうか。
生きたかったのか、死にたかったのか、それすらも分からなかった。
祖父以外、誰も。

そして15日に亡くなった。87歳だった。
1月2日にはもう危篤状態だったらしい。

それを知ったのは今日だ。

ねえ、なんで。なんでそんな大事なことをLINEのトークで言えるの?
ねえ、なんで。電話の一つもくれなかったの?
なんで、なんで、私にも祖父の苦しみを背負ってあげる機会を奪ったの?

一生許さないし、もう叔父も叔母もさよならだね。

何かあったらいつでも言ってね』

そのいつでもは、私が死ぬときにすら、あんたたちに言ってあげない


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