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本当に大切なのは、何もない一日

バッドニュースはいつだって唐突に降ってくる。

私の場合、それは楽しみにしていたイベントの最中に。狙ったように神様は、無防備な私の頭上へ、躊躇いなく冷水を浴びせかける。

夫が事故に遭った時も、とても大切な友人が亡くなった時も、知らせを受けたのは旅先だった。目の前の美しい風景が突然色を失って、足元がぐらりと歪んで沈み込んでいく感覚。

思考が混乱して、電話の向こうで誰かが告げる悪い知らせを聞きながら、「私は今、なぜこんな場所にいるんだろう」と考えている。心細くて居た堪れなくなり帰りたくなる。

何も起きていなかった昨日に戻してほしいと、心の底から願う。

***

母が倒れた。

うっすらと覚悟はしていたし、想像もしていた。でも、遠いどこかの国の話のように非現実的で、起こらない未来について考えているみたいだった。

家族が存在し続けるだなんて思う方が非現実的なのだけれど。

連絡を受けたとき、私はディズニーランドにいた。悪い知らせとは無縁のような場所。少し早めのクリスマスプレゼントに、と娘が計画してくれた旅行中だった。


その日は朝から冴え冴えと晴れていて、二人とも上機嫌で、あたりまえだけど悪いことが起こる要素なんて一つもなかった。

ゲートを入ってすぐの広場で、何組かのグループが歓声を上げている。

「やったー!当たったー!」

抽選に当たらないと入れない、新アトラクションの入場権を手に入れたらしい。

私の横でスマートフォンをいじっていた娘が、こちらを向いて嬉しそうに笑った。

「当たったよ。2つとも!」

普段はくじ運なんて全然ないのに、米津玄師のライブで特等席を当てたり、娘はなぜかここぞという時にツイている。

「いつも運を貯めてるんだよ。」なんて言いながら、「今日はいい日だなー」とニコニコしている。私へのプレゼントではあるけれど、娘も新しいアトラクションをとても楽しみにしていたらしい。

寒さなんかものともせずに、笑顔の波がアーケードの下を流れていく。例年のような華やかさはないけれど、それでも精一杯クリスマスを演出してくれていて、みんなも目一杯楽しむぞ!という空気に包まれた幸せな空間だ。

以前とは違い、アトラクションどころかスーベニアショップでさえ予約制になっている。せわしなくタイムスケジュールをこなしながら、乗りたかったもの、食べたかったおやつのリストを順にクリアしていく。

慌ただしく動いていたら、いつの間にかランチタイムを過ぎていた。お腹が空いたので、娘が行きたがっていたレストランへ行こうかと聞いてみた。

食いしん坊の彼女はたっぷり悩んでから、「そこはとっておきだから夜に行くことにして、もうひとつ食べたかったお店へ行こう!」と、張り切って歩き出した。娘の背中を追って歩いていると、スマートフォンのバイブレーターが震えた。

妹からLINEのメッセージが入っていた。

“ 時間のあるときに電話をください。お母さんのことで話があるので。”

いつもの明るい挨拶文無しに、用件だけ書かれた画面が気持ちを波立たせる。良い話ではなさそうな気がして、すぐに折り返せなかった。

レストランに入ると、娘が楽しそうに「これが食べたかったんだー」と限定メニューを指さす。「じゃあ同じのにしようかな。」と言いながらも、空腹感はどこかへ行ってしまっていた。

食事中、娘と会話しながら頭の半分にはさっき見た画面が浮かんでいる。嫌な気分が襲ってくるほどに、目の前で笑っている顔をずっと見ていたくて、いっそ一日が終わるまでメッセージに気づかなかったことにしてしまおうか、と考える。

いまさら、母の話など聞きたくなかった。

***

母とは、もう10年近く会っていない。

子供の頃から母と私は相性が悪く、仲の良い時間の方が少ないくらいだった。何度も凄まじい喧嘩をして、母の元を離れたくて大学入学とともに家を出た。

歳とともに母は意固地な部分が酷くなっていき、よくわからない理由ですぐにプイっとむくれて口を利かない、ということが多くなった。父がいた頃は間を取り持ってくれたりしたのだけれど、父がいなくなってしまってからは、私も妹も、母が機嫌を損ねている時は放っておくようになった。

最後に会った時も、些細なことで母はむくれて黙り込んだ。面倒臭くなった私は、そんな母に声も掛けずに別れた。

数日後、用ができたので母に電話をかけたが何度かけても繋がらない。メールをしても返信も来ない。私のことをまだ怒っているのかもしれないと思ったので、娘からも連絡してもらった。それでも全く繋がらない。

もしや何かあったのではと心配になって、妹に聞いてみた。妹はすぐに母に連絡を入れてくれ、数時間後に返事が来た。

「なんだかわからないけど、ものすごく怒ってるの。もう顔も見たくないって。」

またいつもの不機嫌か、と少し安心し、ほとぼりが覚めたであろう頃に電話をかけてみた。10回くらいはかけたが、一度も電話に出てくれなかった。

それからしばらくして、私は定期検診で引っ掛かり検査入院することになった。後日、病名が判明したので妹にだけ話しておいたら、彼女は母に報告したらしい。母はその時、「どうせ大袈裟なのよ。心配する必要なんかないわよ。」と言ったのだと悲しそうな顔をして教えてくれた。

それ以来、私から連絡を取ろうとすることは一度もなかったし、もちろん母からも一切何も言ってこなかった。

長年、母からは「あなたのことは理解できない」と呪文のように言い続けられてきたけれど、時々は普通に一緒にいられる時間もあったから、理解しようとしてくれてはいたのだろう。けれど、もうそれすらやめてしまったようだ。だから私も母を理解しようとすることをやめた。

お互いに分かろうと努力しなくなると、そこで関係は終わりだ。

一年二年と時間が経つにつれ、母にとって私はもう娘ではなくなったのだ、と思うようになった。きっと次に会う時は、どちらかのお葬式なんだろう、とさえ考えた。

だからもう母に何があってもどうでもいい。私には関係ない。もう親だとも思っていない。そう割り切った。けれども今、心は波立っていた。

***

私の様子がおかしいことに気づいた娘が「どうかしたの?」と聞いてきた。旅行を台無しにしたくなかったから「なんでもないよ。」と言いたかったけれど、言葉が出てこなかった。仕方なくスマートフォンを取り出して妹からのメッセージを見せる。

「すぐに電話したほうがいいよ。」と急かされながらも、まだ掛ける勇気が出なかった。

本当に予感が当たって母に何かあったのだとしたら、私はどう振舞えばいいんだろう。

そんなことを考えている自分に、また気持ちがざわざわする。私はもう、真っ先に母の心配をするような、真っ当な人間ではなくなってしまったのだ、と感じた。

“今電話しても大丈夫?“  と妹へメッセージを打つ間も、しばらく返事が来なかったらいいなと思っていた。それなのに、そう言う時に限ってすぐに返信がくる。

妹は私からの電話を待っていたようだった。ごめん、と心の中で謝る。

二日前に母が自宅で倒れたこと、兄は仕事があるため自分が今付き添っていること、いくつか検査をして結果を待っていること、などを教えてくれた。とりあえず今は重篤な状態ではないので安心してほしいという妹の言葉に、自分だけ別の世界にいるような奇妙な感じがした。「よかった」と言いながら自分は何に安心したんだろう、と頭の中で考えている。

最後に妹が言った。「本当は知らせていいのか迷ったんだけどね。」

気を使わせてしまったなと思いながら「手伝いが必要だったら言ってね。」と伝えて電話を切った。すぐに行く、とは言えなかった。

倒れた時の状況からするに、もしかしたら近い将来に介護が必要になるかもしれない。はっきりと妹は言わなかったけれど、少し今後の心配をしていた。

そうなったら、私はどう母に接したらいいんだろう。いっそ、私のことなんか分からないようになってしまった方が、普通に助けてあげられるかもしれないなどと、あるまじき考えがぐるぐると頭の中を回る。

呆然と考え込んでいたら、心配した娘に「とりあえず、どこかに入って座ろう。」と促された。

近くのカフェに入って、今聞いた話を娘に聞かせ、それからしばらく二人並んで黙って座っていた。

娘が先に口を開いて、「近いうち、おばあちゃんの面倒を見てあげることになるよね。」と言った。その言葉を聞いて、急にまったく別の心配事が頭に浮かぶ。

どうしよう。この子は一人娘だから、もしかしたら一人で私たち夫婦の面倒を見ることになるかもしれないのだ。どうすれば、そんな大変な事態を回避できるんだろう。

足元からひんやりした空気が上ってくるように怖くなる。当たり前のように送れている平穏な日常にぼんやりと浸かっているふりをして、見ないようにしてきた問題を目の前に突きつけられたみたいだった。解決策なんかどこにもないような気がしているのに、必死に良い答えを探して思考をめぐらせる。

その時、目の端で何かが傾げたような気がして横を見ると、娘が青くなって僅かに震えている。

「気分が悪いの?」と聞くと少し頷いた。何年も出ていなかった過呼吸の症状が出始めているようだった。落ち着かせようと手を握って背中をさする。

「大丈夫だよ、大丈夫。」ほかに安心させられる言葉も見つからず、ひたすらそう言いながら背中をさすり続けた。

***

落ち着くのを待って店の外へ出た。いつのまにかそこら中に綺麗な灯りがともってキラキラと美しい風景に変わっていた。

ああ。綺麗だな。と思った心の裏側がしんしんと痛い。店の中にいる間に、風景が遠くなってしまったようだった。

楽しそうな笑い声をあげて、目の前を数人の女の子が通り過ぎる。私たちがそちら側にいたのは、どのくらい前だっただろうか。

とりあえず歩きたい、という娘と並んで、何を見るでもなく園内をぐるぐる歩く。歩きながら、何が不安だったのか娘にそっと尋ねてみた。

「やっと最近、色々なことが落ち着いて普通に生活できて嬉しかったのに、またあそこに戻るかもしれないって考えてしまったの。そうしたら息ができなくなりそうだった。」

いまだに急な環境変化に過敏に反応してしまう彼女は、時々、抜け出せたと思った暗闇に戻ってしまう。

そこまで過剰に心配させたのは私の責任だ。

「何も起きないって、素敵なことだよねぇ。」と私がいうと、「すごく嬉しいことなんて何も無くていいから、心配なことがない毎日がいい。」と彼女は呟いた。

いつの間にかシンデレラ城の前の広場まで来ていた。夜景をバックに沢山のグループが写真を撮っている。それをなんとなく眺めていた娘は、唐突に「帰ろう。」と言った。

まだ“とっておき”を食べてないよ、と彼女に言いながら、今朝の楽しそうに悩む顔を思い出していた。

その時、自分の足の下だけ地面が抜けるような、心細い感覚に襲われた。

「もう帰りたいの?」ともう一度聞くと、「もう笑える気分じゃないから。笑えない人はここにいたらいけない気がしちゃうんだ。」と言いながら、ゲートへ向かって歩きだした。




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