「自分だったらどう思う?」宛名を書き替えられた手紙―察する力の柔軟性


私は小学生の息子に「こんなとき、自分だったらどう思う?」と聞く事が多い。

友達とトラブルがあったときは
「○○くん、どうしてそんなことしたと思う?」
わからないと答えると、
「じゃあ自分だったらどう思う?」と。

今までなんの疑問も持たずにそう言ってきた。
きっと大昔、母も私にそう言って『人の気持ち』を理解させようとしたのだろう。

ところが前回のnoteに書いたあの職場の事件から、これってまずいんじゃないかと思うようになった。

無意識の内に、私は『自分だったらこうしてほしい』の自分軸で人の気持ちを察する思考回路が身についていた。

人間だから普遍的なものとか、善悪、喜怒哀楽、ある程度通ずる価値観とかで生きていると認識していた。

でも、『物を送る』行為ひとつにしても、
物をもらって純粋にうれしい人、お返ししなきゃと困る人、自分のものは自分で買いたい人、様々な人がいる。

先日息子が祖父母(私の両親)に手紙を書いた。

いつも父が返事を書くのだが、今回は何日経っても返事を書かなかったらしい。そこで母が返事をだしてくれたのだが、それを知った父はそれはそれは激高した。何か月も口をきかず、母は疲弊した。

母からすれば善意である。
『自分なら』手紙の返事を書いてもらってありがとう
ということだ。

しかし母の善意は母の心から飛び出した瞬間に『攻撃』となり、父の心に飛び込んだ。

そして、こともあろうか父は息子が書いた封筒の宛名を二重線で消し、自分宛だけの手紙に書き換えた。(母談)

おそろしい自己主張だ。


こんなに歳を重ねても、人の気持ちになるなんて出来っこないのだ。
(私の父は、へそ曲がりの頑固もので、母は昔から相当の苦労をしてきた。そんな母でさえ、ピンポイントの父の気持ちを察することができないのだ。)


「自分だったらどうしてほしい?」はあくまで自分探しにすぎない。

もっと説明するなら、
「まあ一般的には人間ってこういう人が多いから、こうしておくのが無難だけど、ほんと人それぞれだから、この人はこんな人だからこう対処するのが得策かと思うよ。」なのだ。

ややこしい。

日本人って空気を読むのが得意と言われる。
きっと得意なのは『機嫌』や『相手からのサイン』としてにじみ出てくる気の流れを察することで、隠された『気持ち』のことではない。

説明もされていないのに、『あなたの気持ち、わかります』なんておこがましいことはせずに、

もう開き直って、相手の本音なんてわからないのだから、
『あなたの機嫌を害するつもりなんて微塵もないですよ』
という態度でいようと思う。


「自分だったらどう思う?」
「○○君も同じように思ったかもしれないし、もしかしたら違うかもしれないね。今度○○君の気持ち、聞いてみよっか。」





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