染まっていく毎日
未知で新しかったことも、生活に馴染んでしまえばそれが「その人の当たり前」となる。
先日、ヤギのエサ取りで庭に出ていた時のこと。この作業は自分にとって、いつから当たり前になったのだろう、と考えた。
寒さが厳しくなり、田んぼは少し寂しそうな姿をしている。そこへ大きくて真っ赤な夕日が落ちていく。小高い丘で、一人の女が二頭のヤギと一緒に草取りをしている風景があるならば、それは私の日常かもしれない。
ヤギと暮らすことはいつの間にか、「自分にとって当たり前」になっていた。明確にこの日からこの作業が生活に馴染んだ、という自覚はなかった。しかし、確かにもう新しいものではなくなっている。
日々はこうしてその人に染まっていく。
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中学生のとき、総合学習といって、暗い部屋で大きなスクリーンに映された映像を見る授業があった。そのうちの一つで記憶に残っている作品がある。
森で親鳥のいない鳥のヒナを見つけた少女がヒナを育てる物語。彼女は親鳥の代わりに、ハングライダーを使ってヒナ鳥に飛び方を教えてあげる、という内容だった。
牧歌的な風景。飾らない姿の長髪の少女。柔らかい鳥。
全部の描写が綺麗だった。何が綺麗だったのだろう?ということを、今改めて考える。
恐らく、どこまでも少女と鳥たちの生活が「素朴で本物らしい日々」だったからではないかと思う。つまり、スペシャルな日々ではなくて、本当にありそうな平坦な日常をよく映していたと思うのだ。
最初は新しかったはずの鳥たちとの生活も、徐々に少女の生活に馴染んでいく。そしてそれが当たり前の暮らしとなる。
なんだか今の自分に重なる。
ヤギとの生活、丘から湖と夕日を見る日々、梅干しを漬ける時間、ムカデと格闘する時間、庭木の手入れをブツブツ言いながら行う時間、他にもたくさん。すべてが新しかったはずだけど、いつの間にか「当たり前の生活」になっていることがいっぱいある。
そしてこの生活を一緒に切り抜けてくれている夫の存在。彼との生活もまた、いつの間にか。
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30代にもなると、周囲にはメディアに取りあげられたり、業界第一線での活躍を認知され始める人たちがポツポツ出てくる。それを見てどう思うだろうか。
すごいね?頑張っているね?そこを目指したい?そこは目指したくない?
きっとそれぞれ感じることが違うでしょう。
誰かに評価されなくても素朴な幸せを感じながら、小さい(本当は無限大の)世界で生きることはできると思う。どんな環境でも、身の丈にあった「その人の当たり前」へ日々を染めていけば、きっと正直な幸せに満ちていくんだろう。
そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。